妹がちょっとばかし暮らしに疲れて病院のお世話になったとのこと。週末だけ実家に帰ってくる僕に、妹は笑顔でこないだ救急車乗っちゃったと言った。僕もただ、そっかとだけ言った。母がそういう性質を持っているので、瞬間的に感情的になれる人が苦手である。心配なのは当然としても、今妹が平気な顔をしていることが重要だった。ただしずっと通っていた教習所を一旦やめたり、バイトを少し休んではいるとのことで、ただただゆっくり休んでほしいということだけを思う。僕は妹の幸福を脅かす存在を勝手に作り上げて、そいつを殴り殺す妄想をすることがよくある。あえて殴り殺すという方法を選んでいる。何か、色々なことが間違っている気がするが、僕は妹のことをうんと大切に思っていることだけは確かだ。
一人暮らしも板についてきた。神経質で潔癖症な僕に飯の支度や掃除洗濯の手間などは問題にならず、部屋はいつも清潔だった。ありがたいことに友人らもよく遊びに来てくれ、また週末には地元に帰って両親に顔を見せていることもあって、一人暮らしを始めたことで何かが変わったかと言えばちょっと考えてしまうくらいのものだった。近頃の生活に何か問題があるとすれば、僕と、僕の周りの人が疲れてしまっているということだけだ。
先日久々に会社の人事部の手配によって研修が組まれた。今ではバラバラの部署でバラバラに働く同期たちが本当に久々に全員集まり、それはそれは懐かしい気持ちで嬉しく思ったが、その研修というのが数年後の社会人としての自分がどうありたいかということを考える、などという夢のある内容で、これには大変骨を折った。正直僕は仕事を通じてどうなりたいとか、どうせなら楽しんで働きたいとか、そういうことの全部がどうでもよかった、あるいは今までの働きぶりからそういう思想を植え付けられたので、本当に心からくだらない研修だと思っていた。中でも最もくだらなかったのは、アイスブレイクとして組まれたレクリエーション的な項目で、これは二人一組で行う。一人は目隠しをし、一人はその人に右に動けだの左に曲がれだの声だけで指示を与える。研修を行う部屋は椅子やホワイトボードなどの備品によって簡単なコースになっており、見えている方の人は目隠しをした人をうまく操りながら部屋の各ポイントに設置されたビー玉を集めさせるというもの。これで何がわかるかと言えば、仮に指示を与える人が上司、目隠しをした人が部下だった場合、目隠しをした人が指示を受けた時どう思ったか、例えば「指示通りにしなきゃと焦る」例えば「指示通りにし続けなければいけないのがもどかしい、自分でも判断したい」例えば「見えている人の指示に従っていれば確実だから何も考えない」そんなことを思ったとしたら、どうだろう、自分の働きぶりが見えてこないか、などという、僕はこの文章を書いている間にも嫌悪感がぐつぐつと湧いてくるのがわかる。
確かどこかで聞いた話。テストでも細かいケアレスミスをするようだから野球でもエラーみたいなつまらないミスをするんだという野球部の顧問に対して、テストと野球は違う事柄なのに同じように比べるのはおかしいだろうという、その話。僕はそれに強い共感を抱く。まさにそうだ今回はまさにそうだ、僕はそのこととは直接関係のない事柄でもって核心めいたものを探ろうとするその手の心理テスト的な考え方が大嫌いなのだ。端から期待をしていない研修に対して、僕は完全なる嫌悪の気持ちを抱いて参加をするはめになった。ということがつい先日。とにかく日常には人を疲れさせるイベントがたっぷりとある。仕事、家族、友人、男女、のような人と人との繋がりの間にはなるべくひずみを作りたくないのはみんなもちろん考えていることだとは思うが、このところそれらのほとんどがあまりうまくいかない、もしくはうまくいっていることよりもうまくいっていないことの方が目立ってしまっているような気がする。
犬も歩けば棒に当たる、の意味を知っているかとふと思うことがあったが、知らなかった。調べてみたら、出しゃばると災難に遭うぞ、という意味とやってみたら意外な幸福があるかも知れないぞ、という意味があるとのこと。逆である。別にこのことで何か言いたい訳ではない。関係ないこと同士を言葉のマジックで関係があるように見せかけるのは嫌いだ。要するに「知らなかったわ~」ということだけが言いたい。知っていましたか?
ただやってみたらいいことがあるかもという意味は、当たるという言葉の印象から後付けで用いられるようになったともある。物事は全員が間違えるとそれが正となる。エスカレーターの乗り方。片側を空けるのは正しい乗り方ではないからと、道を塞いで乗ると煙たがられる。他人事と書いて「たにんごと」と読むと鬼の首をとったように「それはひとごとだ」と訂正してくる人がいる。こう何と言うか、つまりは、特にない。ただそれだけのことで、それというのは他の何とも関係がない。そういうことって、あるよね。
疲れている時というのは身体よりも頭を休めた方がいいと思う。頭が疲れたままだと、身体もその信号に従ってしまうような気がする。これは関係がある気がする。そう思う。ふと「これってこうだよなあ」と思ったことをたくさん集めて、それをどうにか形にしたい、形にしないともったいない、要するに僕は枕草子が書きたいのかも知れない。エッセイストにはどうすればなれるのか。どうすればいいのか。などと考えていると身体が休まらない。