2014/11/02

些細な気付きを供養したい件

先日ふと「ほら見てごらん」というセリフが気になって、小説やドラマやアニメや漫画でそういうセリフを見たからではなくて、ある日突然そのセリフがふと頭の中に浮かんで、それというのが「見て」と「ごらん」ってどちらも「見ろ」という意味の命令の言葉で、要は同じ意味の言葉なのになぜ2回繰り返しているのか? ということがたまらなくどうしてということになってしまった。僕はこういうどうでもいい気づきをたくさん集めておいて、人と会った時の話題にしたいと思っているけれど、いざ人と会った時にこういう些細なことを覚えているかというとそうではないことが多い、というよりほぼ覚えていないし、仮に覚えていてそれを話したとしてもなんだか話した方も話された方もぽかんとしてしまうような話題であるからして、結局僕はこういうどうでもいい気づきをどこかで有意義に発散させたいと思っているのだ。「見てごらん」の謎については、この場合の「ごらん」は「やってみろ」とか「試してみろ」とかいう言葉についている「みろ」の丁寧な言葉であって、視認するという意味の「みる」ではないということがYahoo知恵袋に書いてあった。疑問が簡単に解決できるということは素晴らしいことのような気がするけれども自分よりも前に同じことを考えて疑問に思った人がいるということについてはどうしたものかもやもやした気持ちがある。人というのはどうにかオリジナルになりたいと願うもののように思う。

昔妹が何かの時に「うるさいよ」と言ったのが僕には「ベルサイユ」と言ったように聞こえたことがあった。だから僕と妹がふざけ合って遊ぶ時に妹がうるさいよと言ってすかさず僕がベルサイユと返すということをよくやっていた。くだらないことだがなかなかどうしてこういう些細なことが面白かったりする。作りこまれたものの面白さは認めるが、些細な事の心地よさと言ったらない。ブランド物の服はかっこいいが、着て眠るならもっと安価なもの。最近はそういう安価でくだらないものに心がときめく、もとい昔からそうであったように思う。

携帯電話のメモ帳はネタの宝庫である。何かに気付くと僕はメモにそれを残す癖があるので、たまに見返してみると面白いことが書いてあったりするが、書いたはいいがそれがどういう意味なのか全く分からない、それどころかいつ書いたのか記憶が一切ないものまでいろいろある。人の名前が書いてあって、それが誰なのか、知人なのか芸能人なのかそれとも気に入ったアダルト女優なのかまったく見当もつかないし、ネットで検索してみても全くヒットしない、そんな謎の名前があるのだが僕はいつかそれが誰であるのか思い出す日が来るのだろうか。
他に書いてあることもかなり断片的なメモであることが多いが、特に多いのはこのブログのタイトルのような記事の題名じみたもの。しかしながらそれだけ見れば、ああそういえばこんなことに気付いたことがあったなあということを瞬時に思い出したりもするので、当時の僕はこれだけ書いておけば将来の僕も思い出すと踏んでいたのだろう。しかしながら先に述べた人名は一向に思い出せない。

メモに残っていたものとその内容を少し。箇条で示しているところがメモの内容である。

・架空の被害に対してキレる
これは僕の性質で、被害を受けていないのに、仮にこんな被害にあったらなんて腹立たしいんだろう! ということをよく考えているなあということに気付いたという話。僕以外の人もこういうことを考えたりするのかな? という興味と、この性質をなんだかおもしろいもののように思えたような。例えば僕は部屋に侵入した架空の泥棒をとっちめる妄想をすることがある。

・終わりよければすべてよし ○○さん(会社を辞めた人の名前が入っている)
僕はその○○さんのことが苦手であったが、いざ辞めるとなるとさびしいような気がしてしまって、何か嫌な思いをしたとしても終わる時にはそういうことを許しているものなのだなあということを思ったという話。見方を変えれば終わるからこそ許すということになっているようにも思える。これを僕は三島由紀夫の金閣寺的な考え方だと思っていて、揺らがないものではなく時間の流れがあって終わるからこそ美しさを見いだせるという作品の考え方をもっと単純な出来事に落とし込んだ時、今回の件もそれに当てはまるような気がする。

・感想が後からやってくる
何かを見たり聞いたりしたその時はふうんとしか思わなかったが、後から感想を求められてじっくり考えてみるとこんな感じだなあと後からじわじわ湧いてくる。感想とか意見を求められる時、それをいつでもぱっと答えられるように準備していることってそんなにないんだなあという気付き。たとえば「君にとって愛とは?」なんて聞かれたとして僕はぱっとそれに答えられない。ちょっと考えてみて、僕はこう思うなあという意見を後から連れてくる。「思う」とは言ってもそれは常日頃からそう思っているのではなくて、考えてみればそのような感じだという意味。基本的にはそういうものだ。

・聞き取れない可能性について
フィクションのものは聞き取れない可能性をまったく無視していることが多い。実際の会話において、意味が通じないのではなくて単純に相手の声が耳に入らなくて聞き取れないことがよくある。フィクションだから当然ではあるが、登場人物たちは相手の言葉をしっかりと全部受け取って意味を解釈するようにできている。聞き取れない可能性を考えていない。僕などはしょっちゅう相手が何を言っているのか聞き取れなくて聞き返してしまう。

・頭が悪いので手で補う
会話をする時につい手がうるさくなることがある。特に多いのは「これくらいの おべんと箱に おにぎりおにぎりちょいとつめて」の節を歌う時に両手の人差し指で四角いお弁当箱を作る時のジェスチャー。その四角が今回の話の何を意味しているのか全くわからないが、それをやるとなんだか落ち着いて話ができる。これをなぜしてしまうのか考えた時、きっと僕はこれからしゃべろうとすることの順序とか内容を間違えないように手でしゃべりの内容を補っているのだと思うという気付き。ただしそのお弁当箱が僕の何を助けているのかは不明。

・スパイシーチキンのパで唾が飛んでいる
会社の近くにあるファミリーマートはオフィス街にあるので昼時はサラリーマンたちが昼食を買い求めに混雑する。ホットスナックもかなりたくさん用意されて、ここぞとばかりに店員が声を張り上げる。
「スパイシーチキン揚がりました!おひとついかがでしょうか!」
これがとても威勢良い。だから僕はスパイシーチキンに店員の唾が飛んでしまいそう、心の中で発音してみると、きっとスパイシーのパの音で唾が飛ぶだろうなということを思い、そんなことを考えている僕の心の狭さに気付いてしまった。

・時間があるときはプラナリアのビデオが見たい
切っても切っても再生する生き物、プラナリア。切った1匹のプラナリアが2匹として再生する様を映した映像には、特別おいしくないお菓子を食べる手が止まらなくなる時のような不思議な魅力がある。これをじっくり見るということは、そのこと自体が、今とても時間があるということの象徴のように思える。時間がある時、もてあましている時にはじっくりとプラナリアのビデオが見たい、もといプラナリアのビデオをじっくりと見れている時というのはつまりとても時間があるということの証明である。

・あけましておめでとうの意味
僕はあけましておめでとうという言葉を、その言葉自体の意味を意識してそれを言ったり書いたりしたことがない。単純に年始のあいさつを日本語で言うとそうだからという意味合いでしか使ったことがない。意味を考えてみる。「あけまして」とは、「さて年もあけましたが」くらいの意味か? おめでとうはそのままとして、そもそも「あける」という言葉を「あけまして」と活用する意味がよくわからない、というより他の用途で見たことがない。つまり僕は「あけましておめでとう」という言葉を定型文的というのか記号的というのか、意味を込めて使ったりしていないということの気付き。「こんにちは」とか「ただいま」とかも然り。

・指輪をつけるとお休みの証
僕は休日になると指輪をはめる。最近は両手の中指と右手の親指に計3つ。単純に格好をつけているということもあるが、それよりも平日の会社勤めではありえない格好をすると、ああ今日は休日なんだ! ということを強く実感して気分が良くなる。指輪は僕の逆やる気スイッチで、つまりは脱力してよいということの証である。



こういうことを考えていたということを、ただ日々の時間の中に流して行かせるのは少しもったいないように思える。供養、という言葉がうまく当てはまるのかわからないが、死んだことを覚えておくという意味ではあっている気がする。できれば死なせたくないという意味合いもある。それはたとえば僕が物書きになって、作品の中の登場人物にそれを思わせるという方法でどうにか生かしておきたいと学生時代の僕は考えていた。

三連休の中日で気分が良い。古着屋でご機嫌なカーディガンを安く買えたので気分が良い。妹が夕食を作ってくれたので気分が良い。誰かと会った時、仕事が大変な話だけでは悲しいので、もっとご機嫌な話題があればいいな。上に書いたことは、話題になるには力不足のものばかり。