勤労感謝の日というのは誰が誰に何の件について感謝をするのか、その関係性がいまいちよくわからない。金曜日は会社の同期と飲み明かし、土曜日からは実家に戻ってポケモンで遊んだ。ポケモンは大好きなゲームなのだが、最近のゲームはとっても難しくて長々やっていられない。夜からは地元にある『お風呂の王様』という名前のスーパー銭湯に連れて行ってもらった。友人と2人、裸の付き合いというやつである。日頃の勤労の疲れを是非落そうではないか。僕は大きなお風呂が好きだ。
身体を洗うと早々に露天に出た。こういう施設に行くと最初から最後まで露天にいるタイプである。なんと表現するのが良いのか、壁の上からお湯が流れ出ていて、その壁に寄り掛かると上から注がれるお湯が背中にあたって心地よく、そのお湯は壁の下にある湯船に注がれている、というような浴場があり、僕は壁と逆方面、湯船の入り口付近に浅く腰掛ける。湯船は目測8畳くらいある長方形で、お湯が流れる壁は長方形の長い方の辺と同じ幅だけあり横に長い。友人と2人、腹から上を湯から出すような具合で長くそこに居座りながら、仕事のこと、将来のこと、友人のこと、恋愛のこと、家族のことなど20代中盤然とした会話を続ける、僕らは中学生からの付き合いだったので、たまにこういう場で心根の深いところまで同席し合うと、相手、ひいては自分までもずいぶん大人になったような気がしてくる。時刻は22時。飾る言葉を使わずに脳みその中身を垂れ流すには絶好の時間である。たまにそういう照れくさいことをしてみたい気持ちがある。不思議なことに仕事から離れれば離れるほど自分のことを大人に、仕事に接すれば接するほど自分のことを未熟に感じる。不思議なことではないような気もする。そこが不思議である。すっかりポケモンのことは忘れている。
3連休の中日であるということがどう影響するのかわからないが、ずいぶんと人が多いように感じた。8畳間分の湯船の各辺にはイソギンチャクか貝類のそれのような具合でびっしりと人が集まる。僕らの会話を誰かが聞いている。反対の辺にいる2人の会話も誰かが聞いている。そして誰もが我関せずであることがわかる。
少し湯船から人が引いたと思ったら、子どもが4人、髪の長いのが2人、短いのが2人、喉の浅いところから出てくるような高い声でじゃれ合いながら入ってくる。僕は浴場でもメガネをかけている。あるのが2人、ないのが2人。何という訳でもないが、僕はその4人のことを何となく見ている。
子どもらは湯が流れ出る壁に向かって一目散に湯をかき分けていく。そしてその時湯が流れる壁の中央。湯船は湯が流れる壁を長い方の辺とした長方形であると上で述べたが、その辺のちょうど中央に鎮座して動かない男が一人。壁の真下は湯船より1段高く、ベンチ然としていて座れるようになっている。そこにあぐらをかいて、目をつぶっている。
男は肌が白く、小太りで腹が出ており乳がある。体毛は薄く、髭もなく、顎は肉によって丸みを帯びてつるりとしており、その代り頭髪は豊かで、細かいウェーブのかかった黒髪をおそらくマゲを結うには足りない力士くらいの長さまでにはたくわえ、それでいてそれが空気を含んだように軽く盛り上がっており、髪質の硬いことがうかがえる。毛先には湯気と汗によるしずくを持ち、その濡れ髪を軽く左右に払うだけで放っておく、その姿のなんと自然、天然、もとい超然を思わせることか! 僕はその男の存在になぜ今の今まで気付かなかったのか、いやその理由はその後すぐにわかる。壁から流れる湯を背に受けながら目を閉じて鎮座する男、その男が4人の子どもを割り、右に2人、左に2人、男児と女児が対になり2組に別れ、壁の上から注がれる湯とじゃれ合うその姿、この画はこれで完成した! 聖なるものの加護を受けた男の左右に天からの使いとも言うべき無垢な子どもたちが一切の衣をまとわず水と戯れるその姿、これでこの男は完成をした! その時僕の脳が一筋の理解の矢に貫かれる。この男こそがお風呂の王様だ!
移り気な子どもらはすぐに露天から屋内浴場へ戻っていく。男は動かない。男から神々しさが消える。ただの小太りな男に戻る。僕は今すごいものを見たような気がするし、決してそんなことはないような気もする。一緒にいた友人にそのことは言わなかった。うまく説明できる自信もなかったし、何となく呆けていたのだった。昔ラグビー部だった時、相手のかかとが自分の鼻に当たり、しばらくグラウンドで横たわっていたことがある。不思議と興奮しているので痛みがない。その代りぼうっとしてうまく物事を考えられなくなる。その時の感じに何となく似ていた。勤労感謝の日の夜、僕は一瞬だけお風呂の王様への謁見を許されたという話。1人暮らしを始めてからすっかり湯船に湯を張ることがなくなった。入浴文化を忘れるなということだったのだろうか。