2019/04/07

独身最後の日に書いた日記の件

何かあるとすぐ眠れなくなる。センター試験とか、最終面接とか、恋人の両親に初めて会う日の前夜とか、自分の傷みやすさに笑ってしまうくらい、本当に眠れなくなる。センター試験も悪くなかったし、最終面接は受かったし、恋人の両親にはとても優しくしていただいた、結果的にはそんなに悩むべきことではなかったし、そういうようなことが積み重なった経験から、なんとなくまあ上手く行くだろうという気持ちが湧かない訳ではないのだが、なぜかほんの一抹、心の何処かになかなか拭えない不安の材料があって、小さなささくれがチクリと痛むのが気になるように心に障って、それで眠れなくなってしまう。繊細でナイーブと言えば聞こえは良いが、そんなお行儀の良い言葉で言い表してもらえるようななりか? 肝が小さいとか、臆病とか、その方がしっくりくる。あえて最後最後と区切りをつける必要もないのだが、あらゆることが独身の身ということではこれが最後だと思うと感慨深いと言うべきか、時のおそるべき流れを感じた時に特有の、物悲しい思いが胸に去来する。何かの節目というのはそういう感傷的な気分になりやすいたちで、卒業式にもよく泣いたのを思い出す。明日の予定はまず区役所に行き、転居届を書く。結婚を機に引っ越したが、どうも婚姻届と転居に関する届けは同時に出すと手続きが比較的簡易でスムーズと聞いた。書けたら、用意していた婚姻届と一緒に窓口へ持って行く。無事受け取ってもらえたら新しい住民票をもらい、恋人(その時点では嫁さん)は印鑑登録をして、それから警察署へ行って免許の記載事項を変更する。それが終わったら銀行やら携帯電話やら何やら、名前が変わると色々な手続きがあり、嫁さんにはちょっと煩わしい思いをさせてしまうな、なんて考えたりもするが、この日に向けてもろもろ準備をしてきたことの、いよいよ集大成という感じもあり、今まで通ってきたどのイニシエーションよりも特別に思える。だから今日はちゃんと眠れるかどうか、不安によるものではなくて、なんだかむず痒くそわそわとしてしまって、目が冴えてしまうんじゃないかと思う。きっと嫁さんはよく眠っているとも思う。僕はパートナーのことをとても賢く頼もしいと思っている。僕も出来ればそうありたいものだ。

最近ちょっとうれしいことは、恋人が僕の名字を名乗るようになってきたことである。初めてそれを目の当たりにしたのはひと月ほど前、新居に置く家具を買いに行った先で、買った家具の配送先の住所、そこに恋人が僕の名字に自分の名前を重ねて書いた場面であって、僕は人知れず一時、時間が止まったようであった。きっと10年、いやいやもっともっと短い、近い将来そんなのありふれて普通のことになるはずだが、その時はちょっとうれしいというか感動というか、心を打つものがあって、割と僕は落ち着いているとか物静かとか言われることが多いのだが、その内面はまったくそんなことはなく、しかしながらそれをパートナーに悟られるのは恥ずかしいので、何事もないような顔をしていたのであった。そういうことに一々心動かされているところがみみっちいと言うか気が小さいと言うか、だから今こうして独身最後の日に何か文章を残しておいた方が良いのではないかという気になってしまって、仕事の空いた時間にスマホを叩いてみる。独身の内に今しか出来なそうなことを何かやっておいた方が良いのではないか?ひとり旅でもしてみるか?などと思ったこともあったが、生来の出不精である僕が自分のためだけにわざわざ遠出するなんてこともなく、諸々の儀式とそれに伴う逐一の緊張はあったものの、淡々と日々は過ぎ、ついに今日を迎えた訳である。今日の仕事は落ち着いており、これまた淡々といった感じで、周囲の誰かに実は明日ね、なんて言うこともなく、ある普通の日の僕であった。変装して都会を歩く芸能人とか、顔を変えて街に溶け込む犯罪者とか、俺は実は腹に一物あるんだぜ、という人の気持ちってこんなだろうか。仕事に集中してみたいがそこまで焦る仕事もない。今日は早く帰ろう。今日は多分恋人の方が先に家に帰っているだろう。風呂も食事も済んでゆっくりしているかも知れない。結婚を機に同居し始めたので「恋人」としての彼女との同居生活はおよそ一週間ほどであったが、明日からは嫁さんになる。嫁のいる家に帰るというのはなかなかどうして心が躍る表現だ、だからそうだ、今日は明日嫁さんになる彼女のいる家に早く帰ろう。