2019/11/20

僕の吐き気の歴史と結婚式が無事に終わった件

幼稚園に通っていたくらいの時、母がよく納豆巻きを作って僕に食べさせたのだが、僕は海苔を食べるのが下手くそな子供だった。どういう訳か海苔が上顎の奥、指を喉に突っ込んでもぎりぎり届くか届かないかくらいのところにしっかり貼り付いてしまい、何度も何度も指を喉の奥に差し入れては、苦しい思いをしながらべたべたになった海苔を掻き出していたことを思い出す。毎度そうなるわけではなかったが、今から海苔を食べるのだということをつい意識してしまい、また貼り付かなければいいなと少し緊張しながら慎重に口へ運ぶ時に限って上手くいかない。喉に指を突っ込むと当然とても苦しいが、上顎の奥に貼り付いた海苔をそのままにしておくのはもっと苦しい。喉の奥から食べたものが込み上げてきそうで息が荒くなる感覚を知った、というか知覚をした、こういう気分になることがあると認識したのは、この時だったかも知れない。

小学生になると、僕は緊張、特に人前で何かを話すとか、披露するとか、そういう時にその気分になるたちだという事がわかってきた。2年生になると九九を習うが、いわゆる「ににんがし」「にさんがろく」というような九九の覚え方を、担任の先生は生徒全員に一人ずつ、みんなの前で言わせてテストをした。僕は、その気持ちを言葉で表そうとするとどれも正確でない気がしてしまうのだが、とにかく人前で何かを発表しなければいけないということにとてつもなくおじけづいてしまって、その時なぜか、あの時と同じような気分の悪さを感じたのであった。何度も腹の底からすっぱい息が出てきて、ぽろぽろ涙がこぼれた。でもこれを無理に抑えて我慢しようとすると、何か言葉を発した弾みで本当に嘔吐してしまいそうで、苦しいながらも重たい呼吸を繰り返し続けて、ちょうどその呼吸と呼吸の隙間、次の波がくるまでの小康状態の隙に、緊張が起こる出来事を済ませられるよう、非常に繊細な呼吸の波の調節に努めた。これは例えば社会科の調べ学習の発表、音楽の歌のテスト、あるいは運動会のクラス対抗リレーの自分にバトンが渡る番などの際にも同じようであった。僕はいつしかその気分の悪さには慣れ、起こっても、いつものあれが来たのだ、うまくいなさなければ、などと思うようになり、しかしながら緊張そのものには慣れることはなかった。高校で始めたラグビーの試合前なども同じであり、そんな自分に呆れつつも、それが自分の性格なのだなとしみじみ思うような、自分を甘やかす気持ちと共に成長してきたのである。

大人になると緊張を感じる出来事の前に涙が出るほどえずいてしまうようなことは少なくなってきたが、それはその性質への理解が進んで、緊張が起こる出来事の前に食欲が大幅に減退するからであるということもわかってきた。腹に何もなければ吐くものもない。また腹に何もないということを認識することによって、吐き気が起こっても吐くものがないから問題がないのだ、という安心感を獲得することもできた。僕は長年この体質と付き合い続けたことによって、完治でなくとも寛解の術を手に入れていた。しかしながら元々僕は胃腸があまり丈夫ではないのだということも、ある程度の期間生きていると、それを自覚するような出来事が多々あってわかるようになってきて、先ほどの件はつまり緊張の出来事の前に飯が食えなくなるということだから、そういう難儀な食生活をしていると、内臓はよく怒るのであった。しかし飯を食うことはできない。僕はあの我慢しがたい喉元の催しを知っているのだ。だから面接の前も、大きな商談の前も、将来の義理の両親と初めて会う日の朝にも、僕は何も腹に入れることは無かった。生を営んで行くことの、なんと難しいことか。

そしてそんな僕が迎えた掲題の件、僕は2019年の4月に役所へ婚姻届を出し、11月に結婚式を終えた。間の約半年間で式に備えた諸々の営みをこなしていく訳だが、決行の日が近づくにつれて日に日に食欲は減退、直前の数週間などは、幸い夫婦の夕食では、あまり緊張を強く感じないらしい妻の調子が多少移り、穏やかに箸を進めることが出来たが、会社にいる日中はひどいもので、食事の量はほとんど病人のそれであった。
もっとも酷いのはやはり当日の本番直前である。僕の懸念、心配事、緊張の源は多岐に渡る。挙式の作法は正しくできるか、階段を踏み外したりしないか、ドレスを踏んづけないか、指輪の交換時に誤って手から指輪を落っことしたりしないか、誓いの言葉を噛まないか、声は震えないか、エトセトラ、エトセトラ。披露宴に移っては、頭のスピーチを上手くできるか、新婦がお決まりの巨大スプーンですくって食べさせてくるウエディングケーキを受け止められるか、吹き出したり、気分が悪くなったりしないか(モノを大量に食べなければならないのでこれがかなり心配)、そして締めの挨拶の言葉をきちんと述べられるか、など。僕はこの日とてつもない量の緊張を伴うタスクをこなす必要があることを、式の準備を始めた半年前からではなく、結婚することになった時から、結婚の申し出をした時から、いやもっと前、交際を始めて将来この人と結婚することになるのではと期待を抱いた時から知っていたのである。当然当日の朝は何も口にしていない。口が覚えているのは歯磨き粉の味だけだ。

始まってしまえばあっという間で、そういうことを、思い返せばどうやら僕は他の体験から知っていたようであった。胸が高鳴って、指先が震えるような緊張の伴う出来事は、体感する時間がとても短いものだ。気付くと「大聖堂」と名付けられた挙式会場の扉の前に一人で立たされていて、いってらっしゃいませ、などと式場の係に言われたかと思ったら、次の瞬間には静々とバージンロードを歩いていた。心配事を思い出す余裕もなかった。ただ子供のように、大人、つまり式場の係の人の言葉に従って事を進めていたら、気付くと、終わっていたのであった。終わると緊張の名残があって、胸の動きの随分活発なことを思い知った。本当に挙式はそれだけだった。結果として、緊張の影響を大きく受けずに済んだと言える。たしかに終わったという事実だけが、心に残ったようだった。

披露宴においてはゲストとのコミュニケーションがあり、イニシエーションという体裁の色は薄れるので、挙式よりも緊張を感じる余裕が、変な話だがあった。しかしこれは大切なことで、今日は僕と同じ立場のパートナーがいるのである。これまで数々の緊張の波に飲まれてきた僕だが、パートナーがとなりにいてくれるのはこれが初めてであった。これがなんとも心強い。挙式の時はすっかり頭から抜けていたが、握った手のひらから大切なことを思い出した。今朝から空腹を保っていることもあり、喉の奥は穏やかであった。ウェルカムスピーチはおそらくつつがなく、思った通りのことを話すことが出来た。巨大なスプーンですくわれたケーキには苦戦したが、幸い大きな粗相もなく、また腹の底も落ち着いてくれていた。僕は緊張の中にも、今おそらく順調に時が流れているはずだという安堵の気持ちを感じていた。

先に述べたように僕は随分先に起こる緊張に対して身構えるような小心者であるので、披露宴のお開きのスピーチではどのようなことを話すかということについて、結婚式の開催を具体的に検討する前から十分に考えていた。なので実際に本番に備えた原稿を練ろうという段階になっても内容に迷うことはなく、まるであらかじめ埋めておいたものを掘り返すように原稿を手配できたのであった。
ここでの肝は、一から十まで一言一句明確な原稿は用意しないことである。これをやってしまうと単なる暗記が必要になり、言葉の生っぽさも消えてしまうし、次の言葉をつい忘れてしまった時の応用も効きづらくなる。話す内容をいくつかの段落に分け、段落の大まかな内容と、段落と段落の繋がりの流れだけを決める。どんな言葉でその内容を表現するかについては、細かく決めない。僕はひどい小心者のくせに、そういう人前での発表の類を上手くやりたい、良く思われたい気持ちも多少持っていて、だからそういう演出が必要だと思ったし、かつ緊張の緩和のためにもそのような方法がよいと考えていた。
しかしながらそうは言ってもちゃんと言葉を紡ぐことが出来るかどうかテストは必要である、風呂に入っている時、夜寝る前、通勤の電車内、仕事中ふと、色々な場面で僕は突然体の動きが止まり、脳内で言葉が反芻された、それは意思に反して勝手に始まり、勝手に行われた。心の底にある、本番を不安に思う気持ちの表れだ。何度かは、何度かはそういうことが必要である。でも過剰なのは良くない、本番を意識して、またすっぱいものがやってくる、ある程度成功の見込みを確かめたら、後は忘れておくのが良いに決まっている。心配が過ぎるあまりか、本番が近づくとそういうことの頻度は増していったが、その度に、あえて口に出して「考えない!」と自分に言い聞かせるようなことが、僕には必要だった。自分の気持ちの小さいことに、憐憫の笑みがあった。

さて本番の直前、順調な進行の自覚により気分は落ち着いていたし、なだれ込むような時間の経過の忙しないことにより、余計な心配事を考えないこともついに実践できていたので、成功の兆しが、もといそのようなことすらも考えるのをやめていて、ただ自分の手にマイクが渡ってくる時間を待つばかりであった。これは全てが終了した後のことだが、僕ら夫婦の式を段取ってくれたコーディネーターから、僕のあまりに食事に手をつけないことを軽くからかわれた。ここまで僕がまともに喉を通したのは、妻が僕の口に運んだスプーン一杯のウエディングケーキの、ほとんどそれだけだった。つまり空腹の度合いも限りなくベストの状態と言える。
新郎の結びの挨拶の前には親族を代表して新郎の父によるスピーチを行うものと決まっている。僕は父がかしこまった場で、かしこまった言葉を使うところに初めて立ち会った。父の選んだ言葉はどこかで聞いたような色形であったが、それよりも、父の声が震えていたことが印象深かった。
人というのは、と言うと自信がないが、少なくとも僕は、自分よりも立場が弱いものの前で気持ちが大きくなってしまうものだ。後輩の前で先輩風を吹かせてしまう時と同じで、つまり明らかに緊張している人を目の前にして、僕には余裕が生まれていたのであった。マイクを手渡されてからは、例えばここで一拍置こうとか、少しゆっくり喋ってみようとか、誰々に視線をやりながら話そうとか、そういうことを考えながら、用意していた口上を述べることができた。聴く人にどんな風に届いたかは分からないが、自分には成功を信じる気持ちのあることを感じることができたのであった。

振り返って考えてみると、それは様々な要因があったものであるが、一言で表せば無事に終わった。ゲストの全員を見送って控え室に戻った時に思わずついた大きなため息によって、僕は食欲を思い出した。今朝会場へ向かう前、緊張を紛らわそうとして、終わったらご褒美にタピオカを飲もうだなんて、わざとふざけて話したが、今いきなり空っぽの腹に甘ったるいタピオカドリンクなんぞを入れればどんなことになるかわからない。でもおそらく僕は当分喉の奥から込み上げる思いを感じずに済むであろう、そのことが嬉しくて、そのお祝いをしたくて、どんなもったりとした重たい味を選んでやろうかと、そればかりを考えていた。2019年は結婚の準備に始まり、そのお披露目の完了をもって、結びとなるはずである。本当にそればかりの年だ。こんなにも僕の喉の奥をむかむかとさせることが、今後あるはずもない。この経験が、というよりも、これを無事に完遂したという事実、完遂により手に入れた、胸に輝く見えない勲章が、きっと今後の、引き続き心の弱い僕を勇気付けるだろうと、そんなことを思った。そしてやはり、同じ色の勲章を受けた妻がいてくれるので、それはありがたいし、うれしいし、腹の虫は元気に鳴くのだった。