先日ある人から、仕事でもそれ以外でも、今一番やりたいことは何かと聞かれることがあったのだが、何も具体的な物事を答えることができなかった。元々僕には過度にコミュニケーションを円滑に進行しなければならないという意識に囚われているところがあるので、QにAを返すリズムを崩すことが出来ず、熟考した上でのことではないのだが、後から熟考してみても特別何も思い浮かばない。ちなみにその時なんと答えたかというと、今の平穏な暮らしを継続したいというなんとも歯切れの悪い、質問の趣旨に沿っているのかわからないことを言った。
2020年が始まった時に予想していた7月を現在過ごしては全くいない訳で、この後どういうスケジュールで、どんな段取りを踏んで、何がスタンダードになっていくのか全くわからないので、今の暮らしにもなかなか慣れてきたぞ、という感覚に親しんで良いのか怪しい。僕が勤める会社は3月末ごろからテレワークを導入し始めて、僕なんぞは4月から今まで片手で数えるほどの回数しか出社していない。
そんな生活も3ヶ月を過ぎればしっかりルーチン化してしまうもので、例えば嫁が会社に出かけてから(嫁はせっせと毎日出社している)むくりと起きて、洗濯機を回しつつ朝食のフルーツグラノーラを食べて、始業時刻までには洗濯物を干し終わり、リビングでパソコンを立ち上げて傍にはスマホ、このスタイルが取れれば僕の業務は基本的にパソコンカタカタお電話ピポパで済む。そんな風に始まる朝にもすっかり慣れてしまったから、いつか来るであろう、今ではすっかり遠くなってしまったような気がする平時の暮らしに明日から戻しますという時、心と身体がどうなってしまうのか不安である。
2020年が始まった時は、結婚して初めての正月、自分の家庭を持って初めての正月だったので、今までにない新鮮な気持ちでいたことを思い出す。この日を境に始めようかなと思うこと、この日に誓って続けようかなと思うこと、そうではなくても楽しいから引き続き楽しもうと思うこと、色々なことがあって、今結局続けていることと、続けていないことがある。
続けていることは深夜ラジオを聞くこと、本を読むこと、ゲームをすること。続けていないことは週末のジョギング。こうして並べてみると娯楽に走ってばかりでダメなやつだなと思われそうだが、ジョギングをやめたのは先の理由からだ。初めて政府が、この週末は家の中にいましょうということを声高に叫んで、生活必需品が街から消えた日のことを覚えているだろう。あの日を境に、休日のジョギングを中断している。
きれい事を言うつもりはない、ジョギングなんてものは、そのもの自体は楽しくも嬉しくもなんともない。およそ1時間かけて10キロを走るのが自分に課したルールだった訳だが、冬場は寒いし夏は症状かと思うほどに熱を帯びる。おまけに身体はくたくたで、週に一度なんてペースではなかなか心肺機能も脚力も鍛えられないので「慣れ」がやってくるペースの遅いことと言ったらない。腿の筋肉痛は辛い。
しかしこの10キロを走ることで、例えば何か甘ったるいお菓子を食べることができる免許証を獲得したような気持ちになるし、社会において「週末にジョギングをちょっとやってるんですよ、まあ10キロほどですがね」なんて言おうものなら(もっといやらしくない言い方を推奨するが)他人からの評価の上がり様(を想像すること)、いやそれよりもやはり自己肯定感の高まりが果てしないことになる。人はやはり努力した自分のことが好きなのだ。怠ける自分も愛らしいものだが、成果を出そうと苦労して鍛錬をした自分というのはより可愛らしい。例えば自分のステータスを事細かに記したプロフィール帳があったとしたら、備考欄には「週末には10キロのランニング」なんて書かれているのだろうな、なんて思うと嬉しくてたまらない。そんなありもしないプロフィール帳のために走っていたと言っても、今となっては過言でない。もちろん体型維持や痩身の目的もあったが、これによって何かが大きく変わったとは言い難い。
一方続けていることの話、これは明確に2020年から始めている、正確には随分久々に再開したことなのだが、高校時代振りに深夜ラジオを聴いている。具体的に言うと、僕は高校時代、TBSラジオの平日深夜1時から3時までという枠で放送していたラジオ番組が好きで、取り分け伊集院光の番組の大ファンだった。当時は若さ故に生放送を眠い目を擦って聴いた後に短い睡眠を取って学校に行くこともあったが、大体冷静に考えれば深夜の1時から3時なんて時間は何かをする時間ではなく、何もしない、もとい寝る時間であるに決まっているので、段々それを聴く習慣も薄れて行き、また当時聴き逃したラジオをもう一度聴く手段も今ほど無かったし、録音する機材もあまり良いものがなかったので、番組が続いていることは知りつつも、段々習慣は薄れて行き、ついには聞かなくなってしまった。
再開のきっかけは、それはまさしくIT革命、なんて言うと逆にITに疎そうに聞こえるけれど、ラジオはどちらかと言えばアナログなテクノロジーのように思えるが、今ではIT化のめざましいことと言ったら無く、インターネット同時放送、および再放送を全番組が無料で行なっている。伊集院光の番組は月曜日、明けて火曜日の深夜1時からの放送だが、火曜日の朝に目覚めれば、昨夜の放送がインターネットで聴けるのである。それに気付いた僕は、およそ10年振りにかつて馴染んだ居酒屋ののれんをくぐってみることにして、なんとまるで味の変わらないことに驚いた。店を訪れてみよう思ったのが19年の年末のことで、明けて20年から毎週楽しみにしていることの一つになった。
後は読書。これもジョギングと同じ動機で続けているところがゼロであるとは言わない。読書は大変で頭が疲れる、しかしながら興味深いものだ。読書は先の記事でも触れた気がするが19年の夏頃から習慣化しているのでもう1年近く続いていることになる。テレワークなこともあり、重たい単行本の積読崩しが捗った。
最近の僕の読書の変遷がどんなことになっているかと言うと、まずこれは去年の夏頃、読書の習慣を再開しようと思った時のことであるが、好きな作家のまだ読んでいない新刊たちにとりあえず手をつけようということになった。しかし僕はどうも読み物を選り好みするところがあって、良いところよりも悪いところを印象的に思ってしまう悪い癖を持っている。なかなか好きな作家というのが増えず、すぐに次の読み物をどうしようかと悩むことになってしまった。
そこで目をつけたのが三島由紀夫だった。初めて三島を読んだのは大学生の時だったが、金閣寺など有名な著作を合わせて5冊ほど読んだことがある。平易な感想で大変恐縮だが、難しくも興味深い、ユーモアもあれば哲学もある、これをまもなく30歳の大人である僕が読んだらどう感じるのかと思い、試しに何冊か購入して読んでみたところ、これが止まらなくなった。
三島由紀夫というのは例えば純文学誌に載せるために自身の髄と深く向き合って練り上げた作品もあれば、収入のために新聞連載を前提に書いた大衆文学もあり、その技術の使い分けもさることながら、何度も同じ箇所を音読してやっと、おそらくこの様なことが言いたいに違いないと少しわかって、だとすればこれはなんて入り組んだ複雑な思想だろう、と感心してしまうような、ある種学びにも溢れていたので、僕はしばらくこれと向き合うことにしようと決めたのであった。そして最終目標として「豊饒の海」の読破を掲げた。ただしこれを読むには経験値が全く足りない、手に入るものは全て、という勢いで彼の著作を買いあさり、本棚を溢れさせた。
三島の著作を読んでいると、特に巻末の解説などに、誰々の影響が見て取れる、などの文言がよく現れる。文庫本の解説なぞというのは鼻につくのがお定まりなのであまり真剣には読まないが、そう言われると彼のルーツが知りたくなる。手に取ったのは川端康成と、それから派生して吉屋信子の少女文学、そしてラディゲからフランスの心理小説の類である。それぞれについて細かく三島との関係を書くつもりはないが、一人を真剣に読もうとすると、読まなくてはいけない二人目三人目が続々現れることを知った。読書の習慣はまだ治りそうにない。
最後の軽めにゲームの話、軽めと前置きしたのは、僕にとっては読書と比べて完全に娯楽だからだ。
今やっているタイトルはポケモンとどうぶつの森の2つ。どちらも発売当初から続けて楽しんでいる。
僕は小学一年生の時にポケモン赤緑という初代タイトルに出会った世代なので、新作が出る度に購入し、ポケモンと共に育ってきた。だからポケモンが発売されればゲームをやるし、されなければやらないのだ。19年の秋に新作が発売されて、それからすっかり習慣になった。
ポケモンというのはなかなか難しいゲームで、純粋にストーリーを楽しむロールプレイングゲームとしてプレイすることも当然できるのだが、ストーリーをクリアした後に強いポケモンを育ててユーザー同士で対戦をするのがメインだという人も多い。昔はゲーム機とゲーム機をケーブルで繋いだり、二人で同じゲーム機を使い、同じテレビに向かって対戦したりしたものだが、今ではインターネットによって顔も知らない相手と対戦することができる。
ポケモンを育てるという行為にはいくつかの要素があって、まずポケモン達には同じ種類のポケモンでも素質があるやつとないやつがいる。ポケモンには攻撃力がどれくらいとか、素早さがどれくらいという能力値があるのだが、それが生まれつき優れているやつと劣っているやつがいるのだ。ポケモンは同じ種類のオスとメス同士ならタマゴを生ませることができるので、まずは素質のある個体が生まれてくるのを待って厳選するところから育成は始まる。他にもポケモンの性格はどうかとか、持って生まれた特徴はどうかとか、生まれた後に特に鍛えた能力は何かとか、いろいろな要素で僕らはポケモンを育てていく。
そんな風にいくつかの要素によって優れたポケモンを作り出し、編み出した戦法によってインターネットの海へ繰り出していく。当然僕も同じように育成と対戦に励んでいるわけだが、こういう遊びにはやはり流行があって、このポケモンをこのように育ててこんな風に戦わせれば強い、といった情報がインターネットに溢れることもしばしばで、何度違う相手と対戦してもどこかで見たようなポケモン達だなあと思うこともよくある。そうなると僕のひねくれた根性が炸裂して、人とは違うことをやりたくなる。今やっているのは、ポケモン達全員の色を統一したチームを編成することだ。ポケモンというゲームは6匹のチームを編成して戦うのだが、例えば6匹全員を身体が白いポケモンだけで固める。仮に流行りの強いポケモンがいても、白くなければ使えない。これを僕は「白いパーティ」略して「白パ」と呼び、今日も白パで頑張るぞ〜などと言いながらゲームの電源をつけるのだ。やはりあまりたくさん勝てる訳ではないが、制約からなんとか生み出した工夫がうまくはまって勝利できた時の感動はひとしおである。
もう一つのゲームはどうぶつの森。ユーザーは何もない無人島への移住をなぜかゲーム冒頭で決意し、日々島を発展させていくために尽力することになる。ある程度ゲームが進むと、もともとあった川を埋め立てたり、丘を崩して平地にしたりするような工事ができるようになる。それにより制約を半ば失った我が島はいっとき川を失い森を失い丘を失い真っ平になり、今では完全な開発都市となった。
どうぶつの森というゲームにはたくさんの家具が存在して、まだ手に入れていないものもあるし、家具は買ったりもらったりする以外にレシピを手に入れて自分で作ることも出来るので、まだ持っていないレシピを集めたりと、なかなかコレクティブな要素に溢れている。開発都市のオーナーとしては、日々空いた時間にちょこちょこ楽しむといったやり方が合っているように思う。
日々仕事以外にやっていることは何かと聞かれれば、上に書いたようなことばかりになるのだと思う。5月に30歳になったのだが、平気で10年20年前と同じ趣味を楽しんでいたりするので、人は変わらないものだななんてしみじみ思うこともある。もともとインドアな方だが、この夏はインドアを半ば強いられるような暮らしになるように思うので、それは願ったり叶ったりである。僕はどうやら人よりも不安や緊張を強く感じる性格のようなので、今後の暮らしについては目を背けて考えるのをやめてしまうことも多いのだが、上のようなことに助けられながら、なんとか頑張っていこうと思う。