2020年の夏をいかがお過ごしか。僕は普段の夏よりも汗をかいていないように思う。それはつまり長い時間冷房の下にいるということだ。
思えば20代中盤くらいの夏は楽しかった。ただ夏だということを理由に皆で集まって酒を飲んだり花火をしたり、不細工な料理を作って笑いながら食べたりしたものだ。今年の夏にやった象徴的な出来事はなんだ。何か特別なことをやったか。
近頃の僕は毎日リビングの同じ席に座り、平日はそこでパソコンを立ち上げて仕事をし、時間が来れば食事をし、睡眠を取り、心身を消耗させながらそれを繰り返して、週末になったら平日よりも少し長く寝て、仕事の時と同じ席に座り、テレビを見て、ゲームをして、本を読んで、時間が来れば食事をし、睡眠を取り、平日を迎える。見事にその繰り返しで2020年の夏をすり減らしてきた。最近亡くなった高校の部活の恩師が練習のための練習をやるなとよく言っていた。それは要するに練習メニューを上手くこなそうとするな、本番のどんなシーンで活かされる練習なのかということを意識して取り組めということなのだが、今の暮らしは何だかその練習のための練習に近い、呼吸を止めないための暮らしといった風情で、進歩も成長も、また楽しみもないが、ただそれをこなせば生きていられるといったようなそんな状態である。不思議とそういう暮らしの方が心身が疲れやすい。通勤もしない、スーツも着ない、髪も整えない、そんな身なりでも働けば金が入る。一見して楽な暮らしのようにも思えるが、単調さというのは多様性を削ぎ落として出来上がっていくものなので、失っているものも多々あるように思う。ただ妻はそんな中でも毎日出勤しているので、あまりわがままなことは言わないように気をつけている。
人は桜を見てあと何回この景色を見られるだろうとしみじみ思うものだと聞くが、夏だって同じである。気の合う仲間と陽の落ちた広場で花火に火をつけることだって、それはその季節だからできる尊い遊びだったりするわけだ。僕は汗っかきで夏は苦手だが、そういう感傷に浸りやすいのは夏だ。夏は突然音を立てて割れる風船のようにはっきりとした宣言とともにやってきて、夏である間は思い切りそのことを主張をして、時期がくればこれまでが嘘のように終わったことにされ、暑さだけを少しばかり残して去っていく。今年はそういう夏が告げる宣言をまるで聞かずに過ごしてきて、気付けば8月も終わろうとしている。僕はこの夏何をしてきただろう。家にいる時の頭で仕事をして、一人用のゲームをして、読書をして何かを得た気になって、あとは、なんだろう。
この夏僕は指をよく怪我した。というのも、毎日毎日リスクを犯して通勤する妻になんだか申し訳ないような気がしてしまって、夕食の自炊に励んでいたのだ。自慢じゃないが僕はなかなか料理ができると思う。料理は味付けと火加減を間違えなければ多少の手荒さは勘弁してくれる懐の深いところがある。作り方はみんなインターネットに書いてあるし、手先は比較的器用な方だと思うから、いやに凝ったものに挑戦しようとしなければ失敗する方が難しい。今日は夏野菜が食べたいな、かぼちゃなんてどうだろう、そういえば冷蔵庫に豚バラがあるな、と思えば、「かぼちゃ 豚バラ」と検索すればそれで晩の主菜は決定である。テレワークの最中も休憩時間には必ず外に出て日光を浴び、スーパーに出かけるようにしていた。この行為そのものよりも、それによって心身を気遣っていると思うことの方が大切である。
そんな風に過ごしてきて失敗を犯したのはいずれも利き手、右手の、よりにもよって重要な親指と人差し指の腹である。不思議なことに刃物を使っている時ではなく、洗っている時に両方ともやってしまった。傷の程度は伏せておくが、治るまでには相当時間がかかった。妻はよく、作ったのは僕なのだから洗い物は自分がと言ったが、ウチの旦那は凝った料理だかなんだか知らないけど作るのだけは一生懸命で後片付けはみーんな私任せなのよ、なんて小劇場が脳内に繰り広げられる。あれは何からの引用だろう。とにかくそういう事態は避けたいので、妻がどうしても譲らない時以外は僕が買って出るようにしていたが、それでやってしまった。妻が水仕事もできる絆創膏を買ってきてくれた。情けないったらない。
後は、そんな単調な暮らしに気が滅入っている様子の僕を見兼ねた妻がある日文庫本と原稿用紙を買って帰ってきた。これで読書感想文を書けというのである。つまりは夏休みの宿題だ。買ってきた本は中勘助の「銀の匙」とカミュの「異邦人」の2冊。後者は有名だが前者は初見だった。普段人から勧められた本というのにあまり指が伸びないたちであるが、宿題と言うなら仕方がない、立派な感想文も書いて見事に提出してみせようと思い取り組むことにした。僕はその2冊の文庫本を合わせて3日程度で読み切った。
読書感想文を書くという行為をするのは何年ぶりだろう。大学時代ある本を一定のルールのもとに論ずるということはやっていたが、感想を書けと言われるとなかなか難しい。それに原稿用紙を前にすると、読書感想文というものの体裁というか決まり事があるのではないかということが気になり始めて落ち着かない。まあでもそればかりに囚われても面白くないので、原稿用紙の使い方、マスの空け方などを思い出すように少し調べてから、思うままにペンを走らせた。やってみると意外と楽しく、また表現したいことに対して適当な語彙が思い浮かばず歯痒い気持ちを抱いたりして、もっと読書を頑張ろうという意欲が湧いたりもした。妻は課題を与えてから僕がそれを提出するまでの時間があまりに短かったので驚き、また可笑しがっていたが、しっかりとそれを読んでくれ、読書感想文としては60点だけど書評ブログとしては80点だね、などとなんとも言えない感想をくれた。もう少し精進が必要である。
2020年というのは将来歴史の教科書に載る年だと思う。祖父母世代が昔を思い出して、あの頃はああだったと語る場面を見ることがあるが、自分も将来そんな風にこの年のことを思い出す時が来るのだろうか。30歳の今ですら、20代中盤くらいの時に友人達と深夜に繰り出して遊んだ記憶が忘れられないよ、などと言っているので、まあ間違いないことと思う。