流行り病の状況についてはきっと皆さんの方がよくご存知のことと思う、それは僕があえてテレビのニュース番組を観ることを避けているからであって、ただしここ最近は専らアメリカの大統領選挙を報じていたようだったので、多少は就寝前のニュースを横目に眺めるなどしたこともあった。知らないことは無いことと同じと習ったので、身近に迫る脅威について、出来れば知らん顔をしたいのである。僕はちょっと心が弱いところがある。
死者が出ていることに対して、功罪、と表現するのも適切ではない気がするが、そういうことによって僕らの(少なくとも僕の)生活は一変した。平日に会社へ行かない。畏まった服装をしない。電車に乗らない。パソコンと携帯電話に向かって話しかける日々。試しに始めてみたテレワークがなかなか快適ではないかということに皆々が気付き始めて、今ではすっかりオフィスも森閑としているらしい。僕の勤める会社の事業というのは、物理的なものではなくてサービスを提供するというのが根幹であるから、だからこのような事情がなくたって、いつでもいくらでもテレワークくらい始めれば良かったのだ。だがなかなかその第一声を挙げる者はいない、受け入れる者も多くない、それが日本人というものだ、なんて、こんな文脈の場合はそのように言っておくのがセオリーのような気がする。つまり急き立てて認めさせたのは例の病だったという訳だ。これが功になり得るか?
出社する者が少なくなったので、テナントとして借りているオフィスのスペースも縮小、個人の専用の座席を排除してフリーアドレス化が進むことになった。つまり今後もこの働き方をスタンダードにしていきます、病の流行の度合の如何を問いません、これからはこれを通常の状態とします、という訳だ。今まで広いスペースに鮨詰めになって行われていたような社内イベントは軒並み中止になり、インターネットによる映像配信に切り替えられ、あらゆるものが電子のやり取りに置き換えられてゆく。奇しくも昨今のニュースになぞらえられる形になるが、判子による承認も多くの場面で廃止になった。直属の上司の顔を直接見たのもいつが最後だったか思い出せない。早いもので30歳になってもうすぐ半年になろうかという頃だが、この半年間、家にいた時間が最も長い。それなのに労働によって心身は疲れ、給与が振り込まれ、来月には賞与まで支給される。仮にこの会社にこれからも勤め続けていくとした場合、今後の人生はこういう形をしているのか、とふと思う。ほんの少し前に思い描いていた形と随分違う。各人の心の中に今、たった今存在している未来の形には各々異なる硬度があって、僕の場合それが著しく硬い。これが軟らかい人というのは、今より先の出来事に対して比較的容易に、様々な展開に順応していけるのだが、反対に僕の場合、ここだと思ったパズルのピースの場所が適切でない、という事態に対して、つい心が挫けたり、不安になったりしてしまう。だから今、たまらなく悩ましい。この性格の萌芽は何ゆえのことだったのだ、素質として持って生まれたものか、それとも僕が覚えてもいない過去の何らかの事情に影響されたものか、そのどちらにせよ、親の影響からは免れないというのがまた複雑な思いを駆り立てる。
変わる日常、そして未来に順応していくために出来ることと言えば時間による解決以外にない。方法としても、実際に取れる行動としても。だからくよくよと悩むということ自体が不毛なのだ。不安でも何でも、待っているしかない。
待っている日常を少しでも有意義なものにしたくて読書を続けている。何もそればかりが理由ではない、両親から授かったものの中で僕にとっての唯一の美徳は読書が嫌いでないということだと思う。僕は自分の興味によって読む本を選び、またそれに金を払うことができる。最近になってようやく、自分が何とはなしに好ましいと思っていた種類の小説が名前のついたジャンルになっていて、特にフランスで発展していたということがわかって、次々に蔵書が増えている。僕がこういう特徴のある作品は良いなと思っていた物語は17世紀のフランスで興った。
なので読むものに困るということは当面無い。急いで読めば、方丈記の冒頭よろしく跡形もなく流れ去って行ってしまう。現代の大衆小説ならそれでいいかも知れないが、それが、僕は今文学をしているのだ、という意識で取り組む読書であるならば、早くページをめくりたい欲を抑えて、少しでも脳に言葉が引っかかるように味わうべし。今のペースは月に5冊ほどだ。ただ僕の読書というのは会社の行き帰りの電車の中でこれまで行われてきたものなので、それがなくなった今、在宅の時間のやりくりの中で本に手を伸ばす余裕を持つ必要がある。これも新しい、変わりゆく生活様式に順応していくために取り組むべきことである。スタンダードは永遠ではない。同じことを繰り返す生活を退屈だと嘆く人もいるが、いつ何がどうなるか、わかったものではない。
ありがたいのはパートナーの存在である。人は一人では生きていけないなどという美辞があるが、そういう標語に込められた意味ではなくて、現実的な問題として、僕が目を背けたい諸問題を散らしてくれる存在があってありがたいという話。僕は彼女と馬鹿げた話をしている時がたまらなく安らかである。彼女は会社の方針でほぼ毎日出勤しているが、そんな彼女を労うためになるべくの家事は引き受けようと、せっせと時間をやりくりしている。疲れた顔で帰ってくる彼女と夕食を共にする時間は尊い。変わった日常にこれがなかったら、僕はどうなっていたかわからない。僕にとって孤独は耐え難いものだ。
そういう諸々の事情により、僕らは変わることを強いられているわけで、とっくに慣れた者と、僕のようにまだ戸惑っている者があることと思う。少しポジティブな話をしよう。新しい日常で僕の役割になった夕食の支度において、慣れるということはなく相変わらず止めどなく涙を流してはいるが、玉ねぎのみじん切りが上手くなった。柔らかい火でゆっくりと熱し、色をつけていく時に自然と足されるあの甘みが何とも言えず好きで、目に鼻に優しくないのは承知の上で、よく玉ねぎを刻んでいる。変わる日常から身につくことも決して少なくない。