去年の初夏頃だったか、高校時代に所属したラグビー部でお世話になった先生が逝った。まだそんな年齢ではなかったように思うが、指導を受けていた当時から傍目にも健康に気を使った生活をしているようには見えなかったので、何が理由だったのか訳は知らないが、何となくそういうことによって亡くなってしまったのかも知れないと思った。突然のことで驚きはしたが、強く悲しみに暮れる訳ではなし、卒業後は疎遠だったので、仲間内でも生前から既に思い出の中の人だった。最後に顔を拝む機会があったが、見知った顔より随分痩せたように感じた。遺影の先生は2019年のラグビーワールドカップで日本代表が着たユニフォームの姿で、それを見た時、大きく枠組みした故人という対象への漠然とした悲しみのような気持ちから一歩、先生という一人の人格の方に思いが吸い寄せられて、最後に先生、ワールドカップ観られてよかったな、などと思った。19年のワールドカップでは日本代表が大変に善戦しただけに、先生も喜んだことだろうと思うと、どこかほっと安堵するような気持ちがあって、それでなんだか、先生の人生の幕は穏やかに降りたのだろうな、などと勝手に人の人生を区切ってしまったのであった。
今年の正月、父方の祖父が逝った。これは人が亡くなったにしては随分とあっさりした別れであって、亡くなったと言われた日より数日経ってから父より電話があり、既に葬儀まで済ませたと言われたので何とも呆気に取られた気分になった。感染症が流行していた時期であったことも理由だそうだが、どうも父方の家系の性格か、あまり大事にせず静かに済ませてやろうという思いもあったらしく、父ときょうだい達でごく簡素に送ったとのことである。僕にとって祖父はいわゆる田舎のおじいちゃんであって、東京で生まれ育った僕からすればたまに会っては小遣いをくれるじいさんといったところだった。大人になってからはわざわざ会いに行く機会もなく、社会人として自分の身を養うことに時間を使う暮らしの中で、いつか僕はもう今後おじいちゃんに会うことは無いのだろうなとふと感じたことを思い出す。故人の息子である父がとても落ち着いた調子であったことと、晩年祖父は認知症が進んで、父の顔も自分に息子がいることもわからなくなっていたそうだが、身体は最後まで健康で、聞けば老衰ということだったので、それならばまあいいかなどと、それで僕の中でこの件は一息ついてしまったのであった。
今日妻が勤める会社の会長の葬儀があり、一族が代々経営する企業ならではのことか、社葬という形で社員皆により、由緒ある寺で盛大に送ったそうである。そういう会社にとって経営者は父、その座を息子に譲ったものは祖父であると、少なくとも一族の者はそう信じている。葬儀では故人を偲ぶ冊子が配られ、経営者時代の功績はもちろん、息子である現社長からの贈る言葉、更には故人の生い立ちや夫人との思い出までもが事細かく記されていて、第三者の目から見ると随分と大層な出来栄えである。ただこれは代々企業を経営してきた一族ならではの葬送の作法であり、残された者の意思なのである。そうすることによって、心置き無く冥土の旅へ送ってやることができると信じているのだ。故人は自分がどんな風に送られたか知る術はない。
僕はまだ残された者であるから、人の死を受け止めて、自分の中で決着させることが毎度必要である。それはどんな思いや気持ち、あるいは論理などでもいいが、区切りの付け方は残された個々人に委ねられている。故人よりも残った者にその必要がある、だから死は本人よりも残った者にのしかかる、重たさの度合いはあったとしても。近い人の死に直面した経験が幸いにもまだ浅いのだが、いざと言うときの心構えを必要に思う時が来るのかも知れないと、今日のような日には感じる。妻が持ち帰ってきた葬儀の返礼品は甘いお菓子で、知らぬ故人の写真の載った冊子を見ながら美味しく頂いた。