2017/05/15

お母さんの件

本当に大切なことは、大切な人にしか言わないことにしているので、僕は小説家にはなれないと思う、小説家というのは見聞きして体験してきたことを種に花を描いていく商売だと思うから、だから例えば自らの悲惨な生い立ちを作品に昇華させるようなこともやってのけるし、作品になったそれは悲惨でありつつも作品として非常に美しい体裁を成していると思う。そういう自らの弱いところを、事情を知っている人間が見たらなんて思うだろうかなんてことは考えず、作品とだけ向き合い続けることができる人が小説家になるのだと僕は常々考えていて、そういう意味で、僕は自らのこんな出来事を作品にしてしまえたら、作品としては非常に美しいものになるに違いないと思いつつも、いやこんなことを作品にしてしまったらあの人はこう思うだろうし、彼は僕にこんなことを言うかも知れないなんて、僕は外聞を捨てきれない、だから僕は小説家にはなれないのだ。

僕は家族に対して非常に大きなコンプレックスを持っている。よく自らのマイナスの深さを競い合う、僕のほうがつらい、私のほうが大変、という物の言い方をする人がいるが、そんなのって何の意味があるのだろうか。それくらい寝れば忘れるという人もいれば、もう無理だ死んでしまおうと思ってしまう人もいる、秤の性能が違うのに何を比べることができるだろうか、とにかく僕という秤で実家の大きさを量った時に、ああもうこのままでは僕はきっとまともでいられなくなってしまうと思う時がきてしまって、今は実家を離れて暮らしている訳だが、そういうことの詳細については、本当に大切な人にしか伝えないし、これを伝えることによってあなたは僕にとって大切な人なのだということを表明したいという風にも考えている。つまり端的にどういうことかといえば、僕は実家の家族を疎ましく思っているということ、少し意見しただけで反抗期だなんて言われてしまうような時期をとっくに過ぎた今でもそうだということ、そういうことなのである。

東京駅午前6時発の新幹線に乗るためには、5時には家を出なければならなかった。前日は普段通り出勤した。ゴールデンウィークの中日で休暇を取っている人もいるが、月初には外せない仕事がある。
実家の家族はすでに母方の田舎へ車で向かっており、僕には後から新幹線でついてくるようにと言った。朝は得意な方なので時間のこと自体に特別不満はないが、孫のライフイベントにしか興味がなくなってしまった祖父母に会うことと、そんな祖父母と実家の家族みんなと数日間過ごさなければならないことが憂鬱であった。
母方の実家は東北の、当然のように無人駅、国道沿いであるので輸送のトラックがよくそばを通るため、人の気配を感じることはあっても、町として栄えている風では決してない田舎にあった。僕は幼少からよくそこへ連れられてきていたので、帰省と言えばそこを指した、僕にとっては特別な場所である。東京駅からは新幹線で2時間半、特急に乗り換えて更に1時間半という具合だ。
到着したのは午前10時ごろであったが、孫の顔を見る祖父母というのはそれはそれは幸せに満ちたような顔をするので、当然優しくしてやりたい気持ちがある、僕が来るだけでそんな顔をしてくれるのなら来た甲斐があるというようにも思う。いやむしろ、ここに来る理由なんてそれ以外に何があるだろうか。僕にとって帰省とは祖父母への接待、および両親への接待であった。社会人になって独立してもちゃんと一緒に帰省についてきてくれる息子であるということが、両親にとって最高の接待であると僕は知っていた。

少し時間は戻って三月の末。年度末の締め、皆さんお疲れさまでしたという体で集まった会社の飲み会にて、僕のついた卓を囲むのは部長と先輩社員2名、いずれも既婚者であり、どういう訳か、独身である僕に対して早く結婚するべきという者と急ぐ必要はないとする者が討論をするという展開になった。早くするべきという者は渋るメリットがない、するなら早く、しないならずっとしないべきなどと言う。反論する者はまだ若い、もっと遊べる、結婚なんていつでもできると言う。僕がはいともいいえとも言わずにその様子を眺めていると、俺は結婚前に彼女と同棲をしたという者がおり、対して俺はしなかったという者もいた。それについてもするべきしないべきという意見があって、するべきという者は、同居すると相手についてこれまで知らなかったことが明るみに出てくるので、仮に生理的に受け付けないような癖を持っているような場合、結婚してからでは取り返しがつかないと言う。対してしないべきというものは、仮にそのような癖があっても、結婚してしまえば諦めがつくなどと言う。そうして僕に、お前はどうなのだと話を振られた時、僕は素直に、僕は相手が嬉しければ僕も嬉しいと感じるし、特別どんな性質を持っていようと構わない、それに合わせてあげられることに喜びを感じると思ったので、その通りに伝えたところ、なんとも奇特な性質の持ち主であるようなことを言われたので、なんて自分に自信がある人たちばかりなのだろうかと感心したことをよく覚えている。

何も恋人に対してばかりではない、親しい友人にだって、そこまで近しくはない知人に対してだって、僕はどうも接待体質なようだった。自分を殺して相手に合わせることを苦痛に思わない、相手が好ましい関係であればむしろ嬉しく思ってしまう、そういう性質だった。相手に合わせるために、相手にとって都合がいいように事実を曲げて何かを伝えたりすることもよくあった。ちょっと知ってるくらいの人が相手であれば、僕がそうすることで場がうまく収まるのならなんて思うし、もうあなたしかいないという相手であれば、あなたの思うままの振舞いにひしと寄り添えることが何よりも幸せであるなんて、そういうこともある。

長期休暇になる度に律儀に帰省するのも、深くコンプレックスを抱える実家へ定期的に足を運ぶのも、みんな接待である。僕が顔を見せることで、家族の形、今の在り方、未来の姿に覆いかぶさろうとする、何か陰るものを薄れさせることができるのであれば、そうしてやるのが人ってやつだと思う。田舎は海沿いの町だが、晴れた海岸を背景に僕と妹を立たせ、一枚写真を撮った父の、その写真を見て何とも喜んだ顔をした父の、その時できる精一杯の笑顔をしてあげた僕の何とも気の利いた心遣い、営業マンとして働く僕だが仕事でだってこんな気持ちになったことはない。妹の隣で笑顔で写真に収まる自分のこの中身のない笑顔の悲しいことと言ったらなかった。嬉しそうに写真を眺める父に僕は、それでいい、そのまま死ぬまで暮らしてくれればそれでいいとそればかりを思った。
母は帰省すると方言をしゃべった。母は愛郷心が強いというか、逆に都会に対してコンプレックスを抱いているような人だったから、何かにつけてはここへ来たいとよく言うのであった。田舎特有の、家長である男子が誰よりも偉いとする思想、食卓から動こうとしない祖父へ忙しく食事を運ぶ母の、その嬉しそうに働くことと言ったら。祖父ばかりにではなく、父にも、僕にもだ。祖母と一緒に食事を用意し食卓を整える母は幸せそうに見えた。母は東京へ出てくるべきではなかった人だと思う。そうして黙って接待じみた取り計らいを受けることこそが、母への接待だった。両親にとって今年のゴールデンウィークはそれなりに幸せなものになったと思う。

東京へ帰る時には僕も一緒に車に乗って帰った。一度東京の実家に帰り、土日を実家で過ごしてから一人暮らしの部屋に帰って月曜日、久しぶりの出社の日を迎えようかとも思っていたが、接待疲れかもうこれ以上一緒にいたら中毒の症状を起こしてしまうという気持ちにすらなって、一度実家に帰ってきたらそのまますぐ駅に向かい、自分の部屋へ帰ってしまった。休みに入ってすぐに帰省してしまったから家のことを何もしていない、土日の内に片づけなければならない、そうやって、ちゃんと帰る理由があるのだというように場を整えてから家を出た。そんな風に我慢の接待をする相手は他にいない。

母の日には接待しない。これは決めている。子供は親を選べないというが、正確には生まれてくるということについて選択肢を与えられていない。僕は受動的に作り出されたものなのだ、作ったものは作り手が責任を持つのが当たり前の話、両親が僕に感謝することはあっても逆はない。そういう理屈をあえて持つことで、接待の必要を伏せているのだ。僕は喜び勇んで接待がしたい、もとい、そういうことをしたいと願う相手には、接待だなんてことすら思わない、そういう人ばかりに囲まれて、接待という言葉を忘れてしまえる日が来たらどんなに良いだろうか。