小学校に上がる前なんていうのは僕からしてみれば胎児である状態と同じようなものだ。
自分がこのような人間だということを表すための自分史のようなものがあるとして、それというのはやはり自分で選びとったという事実があればこそ「私はこのような人間である」ということの証になると僕は思う、そういった意味で小学校に上がる前などという時期はまだまだ腹が減れば泣いて親に知らせるような性質を持っている段階の続きであるような感じがして、根拠はないけれども小学校に上がるようにもなれば一つその時代からの区切りがつくように思える。
現に僕は幼稚園の時どんなことをして遊ぶのが好きだったのかまるで覚えていないし、良く考えると自分であれがいいこれがいいというように遊び道具を選んでいたのではなく、周りの大人に与えられるままにその道具を使って遊んでいたような気もするし、だから上に書いたような感覚を持っているのかも知れない。
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込み入った話をするつもりはないが、今は家族ぐるみであまり関係が良くない地主の一家が近くに住んでいて、そこの娘が僕と同い年であった。大昔は近所の子供たちも含めて一緒に遊ぶこともあったが、僕というのが小学校に上がるというタイミングでその土地へ越して来たので越した先の近所の子供たちグループの中へ途中から参加しなければならなかったということと、当時からかなり人見知りだったことが災いして何だかいつも居心地が悪く、小学校で別の友達が出来てからは近所グループと遊ぶこともなくなった、その短い近所付き合いの中からたったひとつ僕が持ち帰ってきたものが、ポケモンっていうゲームがあるという話で、それというのがなんだかとても面白そうだということだった。
要は自分でやりたいと思って選んだものってポケモンがかなり最初の方のものだったんじゃないかなということだ。
丁度僕は世代だった。アニメだのカードだのフィギュアだのはもちろんのこと、身の回りの道具にみんなポケモンの絵が描いてあったし、ピカチュウを知らない子供はまずいなかったし、運動会の遊戯でもポケモンの曲に合わせて踊ったし、僕は男のくせにかわいいものが好きな子供だったから丸っこくてかわいらしいポケモンが大好きだったし、当時大切にしていたピカチュウのぬいぐるみなどは今でも近くに置いてある。
それが好きであるということにしっかり理由を持って好きでいる人も当然いると思うけれども、僕がポケモンを好きな理由は今となってはもう何だかよくわからないし、最初にポケモン赤緑を遊ぼうと思ったのも何となく面白そうだったからだと思うし、そのまま好きでいた理由も実際面白かったからだと思う。ただ今でも続けてやっていると「初代を知っている自分」に何か特別な資格を感じてしまって、これは例えばだけれどもジョジョの奇妙な冒険を連載一回目からリアルタイムで知っている人ってかなりそのことに誇りを持っているのでは? なんて思ってしまう、要は古参ぶっていかにも事情を知っていますというような顔をしてしまいたくなるような気持ち、僕は生まれる前にジョジョが既にあったので当然一回目から追うことは出来ないが、ポケモンに関しては確かにそんな気持ちを僕は持っている、子供時代にポケモンが世に出て、そのままずっとシリーズを追いかけていて、ポケモンと一緒に大人になり、今回などは会社勤めで得た給料で買ってやったという感慨があり、何とも清々しい気持ちで10月12日のポケモンXYバージョンの発売日を迎えたのであった。大げさかも知れないが僕にとってポケモンを買い求め続けるということは何ともいえず特別な意味がある。
実はたった今そのポケモンの新バージョンをクリアして、それはもう自慰の後の気が抜けた状態とほとんど同じである。思えば僕はポケモンの新しいバージョンをクリアするたびに自分とポケモンの歴史の事を考えていて、ああ僕はずっとポケモンと一緒だったなあなどとしみじみ思う。つまり何が言いたいかと言えば今回のポケモンもちゃんと楽しかったし、まだまだ遊ぶはずであるということ。
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イルミーゼがすき。ジョジョは4部がすき。