僕は自分が書く文章について意識的に「。」を少なくするようにしている。
というのもマルというのは一回そこで文章が途切れるので、言いたいことの内容をそこで区切りたくない、まだまだ続いていてここで息つぎしたらこの話の内容が1つのブロックである感が薄れてしまいそう、というような意識でマルを少なく、テンを適度にばらまいて文章を繋げるようにしている。あと、頭で考えたことというかぱっとひらめいたことをそのまま出して書きなぐる時にはやはりそこに区切りはなくて、前後がうまくつながらないようなとりとめの無さがある、その感じをうまく伝えたいという気持ちもあり、そこにマルはなくて、あるとすれば一旦ウーンと考えてしまって何も出なくなった時、そういうタイミングでマルが一個あるとなんとも落ちつくというか、そうそうそこだよという感じがして良い、つまりマルっていうのはここぞって時に一発ポンとかますものであって、あんまり使い過ぎると書き進める・読み進める足がひっかかって気持ちが良くないのだ。だから矛盾していたりうまく意味が伝わらない文章があったとしても、そういうとりとめのなさがむしろリアル、例えば激昂している時に筋の通ったことを言う人ってまあいるとは思うがあんまりリアルじゃないというか、理性を失うほどに怒っている時に理性的な意見を言わないでほしい、怒りに任せてひらめいたことをどんどん口から流してほしい、そういうリアルさって結構たまらない。これは主に創作した物語において言っていることなのだが物語ってストーリーがあるしそれをちゃんと進めないといけないから人物の言動には何かしらの意味がちゃんとある訳で、やはりそういうのってリアルじゃない、いやフィクションであるということは端から理解している訳だけれども、作者がいてこれを作ったという雰囲気をあまり感じないままに自分の中へ取り入れたいという気持ちがある、まあ何と言うかつまり僕は現実に存在する人間であって、とりとめのないことをしたり思ったりして、何だかこういうのってどうにかならないのかな、このままどうでもいいことというように記憶の彼方に消えてしまうのかと思うことがあったりなかったり、僕はどういう訳かとりとめのないものに勿体なさを感じるようなことがよくある。
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「癒し」という漢字がどんな字を書くか想像をする時に、何故だか一度「柔」という漢字がふっと頭の中に浮かび、いやいやこれは「癒」でなく「柔」だというような感じになる。
人の口から「癒し」「癒す」「癒されたい」などととにかくその漢字が入っている言葉を聴くと僕は決まって上の思考に一度なる、何だか僕の中のイメージとして癒されるものは柔らかいものというような、そんなものが一つあるらしく、そこからの連想なのだろうが、先日誰かが「癒されたい」と言った時に僕の頭にふっと四方の壁と床天井の全てが大きなマシュマロになっている部屋で自分が満足げな顔をして横たわっているイメージが湧いて、なんだなんだどういうことだということようなことがあった。
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何事も「つまり」から始まることが多い。
自分の状況であるとか今置かれている世の中、とりわけ僕に直接影響を与えるような近くにある物事や環境、みたいなものについてはもう重々承知していて、一番大事なのは「だから」どうするのだということなのだ、だからもう前提についてごちゃごちゃ考えていても仕方がない、つまり僕はどうするべきであるのかについて考えなければならない、というのもどうにも怪しいもので、要するにそんなこと考えても仕方がない、出来ることと出来ないことがあって、自分がどうなりたいかという理想に対して何らかのアクションを起こして果たしてそのようになれるのか? ということなのだが、確かにやらない内から諦めるなだとかやってみなければわからないだとかそういう熱い意見も承知の上ででもやはり僕には確実でないことに対して時間と体力を使っていくということがもうどうにも無理、だから結局一番いいのは置かれている状況に抗わず、無理のない範囲で自分にとって気持ちの良いことをするということなのだ、などと、僕というのは結局のところそんなこととっくのとうにわかっているのだということに対して要するにだの畢竟だのとどのつまりだの何だかんだ改めて言葉にしようとしてしまって、何だかわけのわからないことになってしまう。
祝日の月曜日、夕方の自室で好みの音楽を聴きながら綺麗に本を収めた本棚を、掃除したばかりの床に寝転がって眺めている、という何とも言えず幸福な状況にいたって訳なのだがどうにも最近時間の経過がかなり早いように感じられてしまう。もう気付けば10月も真ん中で、あと10日あまりで次の給料日、気付けば通帳にも見たことの無い額が入っていたりして、今は23歳の僕もその内気付けば24歳25歳26歳になってしまうのではないか、などと僕は本棚をうっとりと眺めながら思っていたのだがもうぶっちゃけて言えばそんなの全然どうでも良くて、自分の姿形がどのようになるかなんてことは自分に自分を見られる場合よりも他人に自分を見られる場合の方が気になる、つまりたった一人の状況の時はなんかそんなのどうでもいいなと思える訳でそんな風に思える状況、つまり薄暗い自室で静かな音楽を聴きながら横たわっている今、今この時間こそが愛おしい、のようなことをあえて意識して感じようとしてしまうというところに僕の僕らしさみたいなものがあるというか、だから何なのだということを言うためのものでもないのだが、本当にだからとりとめのない話なのだ。しかしながらそれって結構意味がある、のかはわからないが、ほっといてなかったことにしてしまうのは何だか勿体ないなと思うのである。
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キットカットの包みに「ブレイクしてね」と印字されていて、まあ出来るもんならしたいという話。