疲れが蓄積するところが大きく2か所あることがわかって、それは脚と心なのだ。
「心」とか「きもち」とかそういう類のものに関する動き方というか揺らぎ方というか、要するに精神的にダメージを受けてつらいとすることを言葉にして表現された時というのは簡単に言えば「しゃらくせえ」という感想が大なり小なり沸くものだと僕は信じて疑わない、もちろん表現の仕方、言葉の選び方・飾り方にもよってくるのは当然なのだが、いやむしろそういう風に色々な表現が出来てしまうからこそ誇張を笑う可能性が広がって来る。しかしながらそういうことを折り込み済みであっても「あ、心がきつい」と思ってしまう時は正直にきついのだろうなと思う。
僕がもっと若い頃に、自分が取るべき行動、それに至る前の思考や理屈のこね方、あるいは僕が述べようとする自分の意見の支えというか根拠というか、つまり自分が対外的に発表したり自分の中で「自分」として持っておく根幹的な思想を作ったりする過程の中の色々な部分に顔を出している人がいて、僕はその作家の考えることを考えることが学生時代にはたくさんあった。今でもよく覚えているのが、主人公の中学生男子は学校でいじめられていて、どうかもう僕をいじめるのをやめてほしいとついに打ち明けるシーンがある。するといじめっ子の方は「君がいじめてほしくないと思うのは君の勝手だけど、それを受けて僕がどうするかということについては僕の勝手で、僕の決定を君の勝手が左右することは基本的には出来ないことなんだ」と言う。決していじめはかわいそうだし誰も得しないからやめようという趣旨の話ではなくて、それに至る前、いじめる・いじめられるという行動をとっている存在としての、もっと基本的な人間ってどういうことなんやというところに言及された内容なのである。
つまり何が言いたいかというと、先週僕は家を出る決心を固めたという内容の文章を書いたが、それを受けて家族が僕に対してどうするかということについて、そこに僕は口出し出来ないということであって、具体的にはグチャグチャの家族会議になって、今抱えている家族の問題の「なぜこんなことになってしまったのか」というところにまでさかのぼる必要が出てきてしまって、僕は言いたいけど言えない、言ったって僕が伝えようとする意味のままあなたは受け取ってくれない、それは今に始まった話ではなくて、この24歳までの人生で物心ついた頃から、自分の意見を言葉で発表出来るようになった時からずっと考えていたことで、もういよいよ僕は限界であるというような、僕という人間がこのような性格で育った根っこにあたる部分の告白を吐いて、やはりそれでも僕の意図は伝わらなくて、感情的な言葉を浴びて、僕はただそれを受けていて、らちがあかなくなって散会した後に、僕は涙でぐちゃぐちゃの顔のままたくさんの枚数の手紙を書いて、それを妹経由で渡してもらって、そういうことに実はなっていたのだ。今どうなっているかと言うと、僕のことをかわいそうと思ってくれたのか、相手にとっての僕への「やさしさ」によって概ね僕の希望を叶えようとする考え方に移ってきているようだが、それは何だか僕が本当に欲しいものではやはりなかったのである。
疲れは脚にくる。肉体的にはやはり動かす部分にくる。脚が重い。歩くのって大変なことなんだと実感した。
疲れは心にくる。これはいよいよ肉体的な部分よりも大変である。泣く=感動の寸法については当然否定に回るけれどもそれでもやはり泣くって生理的な現象であって、抑えようとする気持ちが全く効かない範囲のところにある。例のことが日曜日の夜にあったものだから、僕は通勤中の電車の中、会社のデスク、出張に向かう新幹線の中、客先などで本当に不意にじわじわと涙が分泌されることが今週は多々あって、それでも僕は仕事をしなければならなくて、悪いことは重なって今週は身分不相応な重たい仕事がたくさんあって、当然のように終電に乗っていて、仕事もつらいし安らげるはずの場所である家にも居づらくて、睡眠時間も慢性的に足りず、僕は身体を壊して入院するってのも悪くないなという気持ちになっていたし、まだまだそういう風にはならないであろう丈夫な身体のことを逆に恨めしく思ったりもした。土曜日は不動産屋の内見に行く予定を入れていたが、身体が無理だと言うのでキャンセルの連絡を入れるなどした。
実は家を出る決心が揺らいでいたりもした。出るべきだとは思うし実際出るとは思う。しかし、僕がもっと我慢できていればこんなことにはならなかったのでは? 全部僕のせいなのでは? という気持ちも根強く、僕がやろうとしていることと言うのはちゃぶ台をひっくり返しつつも上に並べた食事は乱したくないというような、矛盾したことなのではないかということを延々と考えていて、本当に一番単純な悩みごととして「僕は一体どうすればいいんだ」というその一点がとても大きい。どうすればいいんだろうか。それを解決する手段が欲しいのか、あるいはそれを優しく受け止めてくれる愛しい異性がいればいいのか、何だかどういうレベルの話なのか考えるのも疲れてしまった。「どうすればいいんだ」の先ってすごく疲れる。考えなければいけないことが多すぎる。
金曜日は職場で飲み会が開かれるようだった。僕はもちろん残業をしなければならなかった。金曜日というのは終業後の時間に客先へのとびきり重たい内容な訪問が入り、21時過ぎに会社に戻ったのだが、飲み会自体は20時からやっていたようである。僕にはもう当日中に帰れないくらいに仕事があったので、でもその飲み会の面子って新人もたくさんいて、2年目が大変そうなのって「来年は自分達もあんな感じになっちゃうの……?」という気持ちにさせてしまいかねないだろうし、それってすごく申し訳ないし可哀そうだし、だから残業してて飲み会に行けませんでしたって相当キツく新人たちは受け止めてしまうはずだという気持ちもあった、しかも残業のせいで費用も事前に支払った新人主催の飲み会に行けなかったという事を僕は5月に一度やってしまっているので2度目はない2度目はないと強く思っていた。だから来週月曜日に残務で体力を使うこと及び「なぜ金曜中にやっていないのだ」と上から言及される可能性があることと、新人に顔を見せてあげることを天秤にかけて、僕は最低限の残務をこなして飲み会の会場へ向かった。新人たちは楽しそうには見えた気がして、大変とは言っていたけどつらいとは言っていなくて良かった、でも何だか変にみんな楽しそうだし充実してそうだし羨ましいなという気持ちも湧いて、いいことないな、と思いながらアルコールをたくさん飲んだ。僕は最近アルコールの飲み方が全く分からない。飲むと絶対に記憶を飛ばすし、実際金曜日は誰に何を言ったのか覚えていないし、電車をなくした翌朝の帰りは山手線を何周かした。
最近は家でも飲まない。飲みたいと思わないし飲んでもおいしくない。でも飲みの席に行くと不思議と酒を手にとってしまい、あれ酒ってこういうペースで飲んでいいのかな? ということを考えつつも身体に酒を入れる手が止まらない、そして急に記憶が無くなって、気付いたら朝、電車、家、そういうことになっている。酒ってなにがいいんだ。全くわからん。
ただ酒は理性を飛ばす道具でもある。よく言えば思慮深い、悪く言えばクソどもりの性格なので酒を飲まないと言えない、いや言わない方がいいのだけれど本心を言えばみんなに聞いてもらいたいよということを、酒を飲むと言っちゃう、おそらく言っている、多分言った気がする、その辺はよく覚えていない。文の頭に「ただ」をつけたが、理性を飛ばすことに得なんてあるのか? もうよくわからない。大体のことがわからないのだ。