一人暮らしの部屋の近所に大型商業施設がでんでんといくつか固まっているところがあって、何という訳でもなくそのあたりへ行ってみた。行ってみて思ったのは、今僕が一人ではなくて、誰かといっしょにここに来ていたら、その相手にどんなことを話すだろうということで、服、本、雑貨と目の端を流れていく店先の風景について一つ一つ感想をあげながら歩いていた。あえてそういうことを考えてしまうところが口下手であるということの証明のような気がした。
先日久々に会社の同期といっしょに昼食を摂りに行く機会があり、喫煙者である彼が行きつけにしている、12時台から喫煙が出来るトラットリアへ入る。彼は僕と正反対、お調子者と言うべき飄々とした人当たりでまさに絵に描いたような後輩タイプ、その後輩らしさは過剰とも思える程の気遣い癖からも僕は見て取っている。話題を作るのは彼の方である。僕はその場で彼の仕事の話をふんふんと聞き、小さな質問などを挟みながら、彼が主菜、僕がそれを引き立てる副菜の様相を呈したまま、それに何ら不自然な要素はなかったが、僕は本当にそういうところがあるなと痛感した。仕事の苦労話に飽きた彼は小指を立ててこちらの方面の話題はあるかという旨の質問を僕に振ってくれたが、僕はお前こそどうなんだと自分でも感心するほど完璧に反射させ、その後は彼が最近目をつけている女子の話で昼休みを消化したのであった。
基本的に野菜を煮る以外の選択肢がない。僕の食生活の話である。
気に入った漫画の新刊を買って帰りにスーパーに入る。今日はどんな野菜を煮るかということで頭がいっぱいである。基本は白菜。それに何かを足す。平日はもっぱら白菜オンリー、気分によってささみか鱈を入れる。低カロリー高タンパクという言葉が好きだ。今日は主食を食べない代わりに鍋を豪華にしようと決めていて、白菜とじゃがいも、ごぼう、豆腐、ささみを買って、あと冷蔵庫に卵が一つあるということを思い出して、僕はそれらを煮て食べることを考えながら自転車をこいで部屋に戻った。
部屋に戻ると夕方。実家にいると休日の夕食は17時と決まっていて、実家にいる時はそのペースに合わせるがいくらなんでも早いと思う。平日の僕の食生活はこうだ、朝は何も食べずに出勤、13時ごろ混雑のピークを外して外食、夕食に例の煮物を作って食べるのは早くて20時、遅くて25時。17時なんてまだまだ仕事はこれからの時間である。今日は平日の疲れで遅めに起床、正午前の中途半端な時間に第一食目を食べてしまったので腹が減った。19時頃に第二食目を摂ることにする。白菜は葉の部分は大きめに切って鍋の底に立てる。肉が厚い部分は一口大にしてそれも立てて入れる。小さな鍋の底が白菜一色になる。じゃがいもはそのまま煮ると時間がかかりそうだったので、皮をむいてごろごろと切った後はラップをして電子レンジにかける。ごぼうは包丁の刃の逆、ミネと呼ぶのかわからないが、そこでこそいで皮を削り、ささがきにして鍋へ。鍋の中の白菜をぎゅっと寄せてそこに豆腐を入れる。胡椒が大好きなのでバサバサと入れる。白菜から水が出るので水はコップ一杯程度入れる。上にささみを並べる。ガムシロップ的な形の容器に入ったインスタントの鍋の素を入れて火にかける。じゃがいもは結構やわらかくなったので後から入れることにする。ごぼうから灰汁が出るのでこれをすくいながら煮込んでいき、もうそろそろというところで割った卵を溶かずに落とす。
じゃがいもを熱した匂いで遥か昔7歳頃のことを思い出す。当時出席番号が近いと言うだけで仲良くしていた女の子がいて、その子の家に突然遊びに行ったらお母さんにふかしたじゃがいもにバターを乗せたものを食べさせてもらった。当時そういうジャンクな食べものはご法度な家庭で育っていたので、これが大変にうまかったことをふと鼻が思い出した。
その子のお母さんは僕が中学校に上がったころに亡くなって、今年で25歳の僕がこれまでの人生で唯一出席した葬式がその件である。ありがたいことに、近い親戚の誰もが元気にしている。親戚や親しい人の死に直面して初めて成長する部分があるなどと決して言うつもりはないし言いたくないが、僕は色々なことをまだ知らない。
僕は死ぬということについて、死ぬ本人よりもその人の親しい人が受けるダメージの方が大きいという考えを一生持ち続けると思っていて、むしろ死んだ本人は自己の死を実感出来ないのだから、死から受けるダメージはゼロであり、その人が死んだら悲しいと思う人が全ての傷を背負うことになるという思想を曲げないつもりでいる。高瀬舟で言えば弟よりも兄の方がつらいはずなのである。などと考えていたら携帯電話に妹からメッセージ、今日は帰って来る? との連絡。実家へは電車で1時間程度。昨年夏ごろに一人立ちしてから、予定のない週末には家族へ顔を見せに帰っている。今日はちなみに帰らないつもりでいて、そして何も連絡しないでいたら家族はどう受け止めるのか実験してみたい気持ちも実はあった。そんな連絡をしなくたって、一人立ちした息子が実家にもどらなくたって、それは自然なことだと信じていた。しかしながらあちらはそうではなかったようで、帰らない旨を伝えると「なんで」と聞かれたので僕は思わず仰天した。なんでもくそもあるかという話である。僕も家族も、不自由な考え方の人間である。
夕食はうまかった。レンジにかけたじゃがいもはほくほくで、ささみの筋はこりこりしていて歯ごたえがあった。そういう風に暮らしていいはずだと僕は自分に言い聞かせていた。そして今日の日の何もないことを一つ一つ思い返していく。今日は人と会わなかったので、ビニールをはがすかと聞いて来た書店の店員にそのままでいいですと言った以外は何も言わなかったが、松任谷由美を歌ったりしていた。