2015/01/31

他人の瞳に居るかもしれない件

 休日の自室、朝、僕が一人で暮らすマンションは三階建てで僕は三階に住んでいて、周りには小学校に通う子供がいる家庭がたくさん、だからこの寒いのに子供が外で遊んでいる声がよく聞こえる。今日は唐突に「助けてー!」という男児の声が聞こえたので何事かと思って一旦アンプにつないだiPodを休めて耳を澄ましていると「今鬼いないから助けてー!」と同じ声が響く、そして僕はピンときた。彼は鬼に捕まって牢に捕えられている、彼を救い出すためにはまだ捕虜となっていない味方に触れることが必要だが、不用意に牢へ近づくと鬼に捕まってしまう、しかし今ならば鬼が周囲にいない、捕虜解放のチャンス、という鬼ごっこの最中であることが僕には瞬間的にわかった。遥か昔年齢が一ケタ代だった時のことを思い出す、僕もよくやったものだ。今世間を賑わわせているニュースのことを彼らは知ってか知らずか、いや子供たちの遊びとは全く関係のない別の事柄だ、僕は周囲の顔色をうかがい過ぎる卑屈な大人であるとその時感じた。

 自室から出て週末は実家へ戻ることがある、というより毎週のように実家から今週は戻るのかどうかという連絡が入る、こちらで予定がない限りは彼らの希望にこたえて戻るようにしているがこれも結構骨が折れる。
 どんな服を着ようか迷う。たかが一時間程度の移動のため、それに会うのは家族、服装に気合を入れる必要がどこにある。別に気合を入れている訳ではない、僕は僕の平穏を保つために、僕自身が頷ける姿になりたいと思っている。見知らぬ他人が僕のことをどう思っているかなんて知らない、気にも留めていないだろうなんてことも想像できる、しかしながらあの人はきっとこんな風な人となりなんだろうなあなんて、外見からイメージされる内面を思い描かれていないとも限らないではないか。ちょっとコンビニ程度であればそれはそれだが、この後僕は電車に乗っていろいろな見知らぬ他人と公共の空間を共にする、この色とこの色の組み合わせは、このコートの形は、このバッグは、このアクセサリーは、この髪型は、僕には考えることがたくさんあった。
 部屋を出て最初に僕の姿を見せるのは朝からずっと部屋の外で遊んでいた子供たちである。彼らは本当に部屋の目の前の道路で遊んでいる。そこは家と家に囲まれた私道、車は出入りしないので安全と言えば安全な空間であって、僕はそこにたまっている彼らの方へ階段を下っていく。子どもが相手なので気持ちが大きくなる、見てくれ、もっと僕を見てくれ、都会へ出たってちっとも恥ずかしくない格好をしているだろう、派手すぎず、しかしながら地味すぎもしない、いかにも二十代中盤を迎えんとする若い男性然とした格好をしているだろう、このショート丈のPコートを見てくれ、円が重なる無限大の形をしたネックレスを見てくれ、見事に真円のメガネを見てくれ、ベルトホールに引っかかったキーリングがリンゴの形をしていてかわいいのを見てくれ、それはまるで階下で行われているパーティ会場へ絨毯敷きの螺旋階段をゆっくり下っていく御曹司の気持ち。
 街中へ出ると僕は街の一人という気持ちになって、しっかりと準備をしたこともあって、心安らかであって、駅に向かう。その時僕は思わず目を引かれてしまうような奇抜な外見であればいざ知らず、他人に注目したり内面をイメージしたりなんてしていない、しかしながら他人も僕に対してきっとそうだという考えには至らない、そういうことが分かっているのに自意識が過剰であることが治らない、それが不思議である。僕は潜在的に卑屈な気持ちがあって、他人からの目を気にするあまり僕が僕自信に対して向ける目にも厳しくなっているようなきらいがある。

 実家の近くに小中学生くらいの子どもが何人か暮らしている家があって、そこの家に対して持っている情報が小中学生くらいの子どもが何人か暮らしているということ以外になくて、僕はこの後十年経ってもこの家には小中学生くらいの子どもが何人か暮らしているという印象を抱いているかも知れなかった、それくらいどうでもいい家だった、というより僕にとってそれくらいでしかない家はほかにもたくさんあったし、僕の家も誰かからそう思われているだろうなと思った。その家の壁にチョークで落書きがしてあって、モンキードッグとカタカナで文字が書いてある。その家の子どもがしたものだと思われる、何かのキャラクターか蔑称の類、少し離れたところにキャット、ラビット、バードなどとあり、なるほど英語の勉強かと合点がいくとそれらの語群と一緒にトミュトなどという謎の動物が紛れていた。僕はその不思議な発音の言葉に心がざわつくのを感じて、このことはきっと誰かに言おうと思った。その家は実家の玄関のドアから五メートルくらいのところにあって、僕がトミュトの前を通り過ぎようとすると父が外に出てきた。僕が地元の駅に降り立った時、家族で車に乗って外食に行くから早く帰ってくるようにと妹から連絡があった。

 家族での外食はもっぱら回転寿司屋と決まっていた。父は注文用タブレット端末の使い方がわからず店員を呼んだ。母は父が今まさに寿司と食べんとする瞬間にマグロを注文するように父に伝え、また次に父がもう食べるもう食べるぞというオーラを発したのを僕が受信した瞬間にホタテを頼むよう父に伝えた。妹はシャリを残してネタだけを食べていたのを両親に注意され膨れていた。僕は妹に自分で稼いだお金で食べている訳じゃないんだからそれは良くないよと言って、母に手を拭くやつ取ってと言った以外は無言で寿司を食べた。「フェアメニュー」なんて大きく看板を下げたメニュー群に餃子握りなんてものがあって、その名の通りシャリの上に餃子が乗ったままのメニュー、それって酢醤油につけた餃子を白飯と一緒に口に入れるのと何が違うのかと僕は思って、父はちょっとチャレンジしてみようかななんて言っていて、いや餃子握りという形ではなかっただろうが餃子と酢の味がついた飯を一緒に食ったことは過去にあったんじゃないかということを言わずに思った。全員がもう食べないということになって、僕と妹は車のキーを父から受け取って先に店から出て車の中に入る。僕はこの家の人間の、なんというか特徴の大味さ、大胆さ、濃さみたいなものに圧倒されて気持ちが痺れるのを感じて、それでいてみんな自分がこの家族の中で一番まともであると考えているということも僕は二十数年の家族歴からわかっていて、すごく怖くなった。父と母が車に戻ってくると、食べ終えた皿の枚数を数えに来た店員が十八枚と言ったことに対して母がもう一度ちゃんと数えるようにと注意をし、再度確認させた結果二十三枚であって、わざわざ最初に店員がカウントした枚数より五枚分も多く代金を払ったと父が言った。母は店員が皿を数えに来る前に自分で枚数を数えていて、店員が申告した枚数と自分の数えた枚数とがかみ合わないとわかるや否やいやいやもう一度ちゃんと数えなさいよとそういうことを言ったとのことだった。僕は逆に五枚多く数えられていたならまだしも少なく見積もられたなら言わない方が得なのではと思ったがその前に五枚も間違える店員は一体どうしたのだとも思った。父はこういう店は多くカウントされることもあるし少ない時もあるから来店回数に対してトータルで見れば大体正しい枚数で精算していることになるんだよなどと不思議なことを言っていた。僕は特に何も言わなかった。異様な家族たちは普段僕がいなくても異様なりに何となく家族らしい形になっているようで、僕はきっと幸せな家庭を作りたいと思った。この中で一番まともなのは僕だとも思った。

 家に戻ると父は早々に自室へこもった、彼は一人が何より好きらしかった。母は居間でジャニーズが映る番組が始まるのを待っていて、妹はなぜだか野菜を食べていた。健康やら美容やらに気を付け過ぎて何かがこじれたらしかった。実家を出てからこの家にもう僕の部屋はないが、帰省時には洗濯物干しだけに使っている部屋に居ついて、僕は部屋から持ってきた小型のノートパソコンでブログを書いた。今回のテーマは僕が他人に他人が僕にどういう感想を抱いているか、抱いていると思うか、そういうことにしよう、他人というのは本当に見知らぬ他人で、近しい人に対して良い印象を持ってもらいたくて身なりや言動に気を付けるのはすごくありふれたこと、そういうことじゃなくて、流れていく風景としての他人、関わりの浅い他人に対してのこと。そういうことを考えることが多かった一日だったような感じがするな、と考えていたら無性にいろいろなことが不安になってきて、僕は誰も嫌わないから、誰も僕を嫌わないでいてほしいなと思った。