2015/03/28

老婆心ながらごめんなさいの反対を考える件

 老いも若きも妖怪ブームだと思う。日本人、というか人というものがそういう生き物なのかも知れないが、たくさんの種類があってキャッチーな見た目でコレクティブなものってそれだけで好きになってしまう。僕はものを集めるのが好きだ。計画がある訳ではないが次の家移りの機会が怖い。荷物の少ない大人のことをかっこいいと思う。僕は一生そんな風にはなれないだろうし、たくさんのものを遺して死ぬはずだ。

 朝、通勤前には教育テレビでおかあさんといっしょを観ている。それは別にそういう趣味だからではなくて、朝一番に飛び込んでくるニュースが凄惨な事件とか知らない芸能人の離縁とか自然災害の脅威とかそういうのはもううんざりだったので、僕はある時からテレビのチャンネルを基本的に2番に合わせておくようになった。他人との会話が苦手なくせにさびしがり屋なので、音がない状態が得意じゃない。じっくり観なくていい、気配だけが欲しい。ニュースは基本的に新聞と、仕事柄IT関連のニュースサイト以外からは仕入れないことにしていて、テレビはおかあさんといっしょと相撲とアニメしか観ない。しかも新聞は総合政治経済企業欄と相撲をやっている時のスポーツ欄だけ、ワイドショーで報せているような良くも悪くも視聴者を引き付けそうなニュースを載せている社会欄は読まない。そういう暮らしに落ち着いて数カ月、僕は旬な若手芸人のネタはわからないが、体操のおにいさんの振りつけには詳しい。
 おかあさんといっしょの番組の構成、オープニングは広いスタジオに歌のお兄さんとお姉さん、周りに子供たちという画。ちょっとした世間話をした後、そんな時はこの歌を歌っちゃおう、というファンシーな理屈で軽い手遊びのついたお歌を歌った後は、クロマキー合成的な画でお兄さんお姉さんがミュージカル風な歌を披露するコーナーやらアニメーション付きの可愛らしいこれも歌、あるいはちょっとしたストーリーもの。後はおなじみのきぐるみキャラクター達が仲良く遊ぶお話、ある時はそのキャラクター達が子供たちの前に登場して一緒に遊んでくれる。最後に体操のお兄さんがお決まりの体操を子供たちと一緒にした後、歌のお兄さんお姉さんらも合流してお別れの歌を歌い、またね~ということになる。僕が好きなのは歌のお兄さん扮する「数え天狗」がものの数を数えるコーナー、数え天狗はものの数を数えるのが大好きな天狗で、イメージ通りのいわゆる天狗的な衣装に高い鼻をつけており、きぐるみキャラが持っている持ち物を数えさせてくれ~とお願いしにやって来る。数えたい数えたい数えられたら鼻高いというお決まりのテーマソングと共に現れて、子供たちには天狗だけに「てんにちは~」と挨拶をする。キャラクターが持っている持ち物を子供たちの前に並べて、みんないくつあるかわかるかな~と一度質問をすると、五つあるのに明らかにろく~! という声が大きかったりすることがあって、それに動じずみんなわかったみたいだね~と進行するお兄さんお姉さんはさすがである。数え終わって満足をした天狗はうれしくて何故だか鼻の頭にお花が咲いてしまう。そして山へ帰っていく天狗に対してまた来てんぐ~と言って終わる。今の歌のお兄さんお姉さんはかなり長いことお兄さんお姉さん業をやっているらしいが、今のお兄さんは涼しげな顔のイケメンなのにくしゃっとした笑顔とコメディチックな演技が可愛らしく、しかもさすが歌のお兄さんだけあってお声が素晴らしく、響く低音が心地良い。お兄さん目当てに子供といっしょに視聴しているママ達の多いことと思う。
 普段はそういう番組だが、たまにお兄さんお姉さん、きぐるみキャラ達が舞台のような大きな会場に登場し、来場した親子の前で歌ったり踊ったりお芝居をしてくれたりするイベントの模様がそのまま番組として放送されることがある。会場の子供たちの様子が映ったりもするが、これが結構楽しそう。一緒になって踊ったり、大きな声でお兄さんを呼んだりする。僕も子供のころはこういうのが楽しかったのだろうか、子供のころ、どういう気持ちでこういう番組を観ていたのだろう。歌のお兄さんもお姉さんも、番組を作っている人も、お話を考えている人も大人で、きっと子供のころの記憶ってそんなにたくさんはないはずなのに子供の喜ぶものを作れるものなのだなという気持ちになる。いや果たして本当に楽しいのか? 子供って表情がわかりにくい。アニメや漫画や天才子役のように、にっこり笑う子供ってあんまりいない気がする。子供は反射として大人のまねをしているだけなのでは、という気持ちが無いわけでもない、子供って一体どういうつもりなんだろうか。どういうつもりであの場所にいるのだろうか。お父さんお母さんに自分から意思表示をしてあの場にいる子供はどれだけいるのだろうか。お父さんお母さんが子供の喜ぶ場所を考えた結果、今度のお休みはあれ見に行ってみようか~ということになっているご家庭は実のところ多いのではないだろうか。そういう余計なことを考える。

 その日は広い会場のステージで、歌のお兄さんが妖怪博士、お姉さんが助手であった。体操のお兄さんはあまのじゃくという妖怪、お姉さんはカッパだった。3匹のキャラクター達は3匹で遊んでいる内に博士や助手、妖怪たちと合流して一緒に遊ぶ役だった。3匹はかくれんぼをしていたが1匹見つからない、そこにやってきたあまのじゃくは「(隠れている1匹の居場所を)知らない! 知らないよ!」と言うので2匹はそうか知らないのか、とがっかりしてしまう。それどころかあまのじゃくは「一緒に遊ばない!」とわざわざ2匹に言い放つので、2匹はなんてことを言うんだ! こっちこそ願い下げだ! と腹を立てる。しかし実のところそれはあまのじゃくの本心ではない、あまのじゃくは思っていることと逆のことを言ってしまうので、本当は隠れている1匹の居場所を知っているし、一緒に遊びたいと思っているのだ。腹を立てる2匹の様子を見たあまのじゃく役のお兄さんがちょっぴり淋しそうな顔をしている理由はそこにある。
 そこにやってきた妖怪博士、こいつはあまのじゃくという妖怪で、逆のことを言ってしまうんだと教えてくれる。2匹は誤解に気付き、謝らなくちゃ! ととても素直。深く頭を下げて、ごめんなさいと言うが、当のあまのじゃくはきょとんとした顔をする。それを見た博士はあまのじゃく語で言わなきゃ伝わらないよと言う。要は逆の言葉で言わなきゃ正しい意味が伝わらないということ。あっそっか! と気付いた2匹。でもごめんなさいの反対ってなんだ? と思い頭をひねる。そこで片割れが気付いて言う、ごめんなさいませんって言えばいいんじゃない? そして試しに言ってみる。ごめんなさいませーん! するとあまのじゃくはご機嫌なご様子、どうやら伝わったらしい。その調子で2匹は一緒に遊びません! と言うとこれまたあまのじゃくはご満悦。かくれんぼに合流して、居場所知らない! あの岩陰に隠れていない! 岩陰を探すと待ちくたびれて眠ってしまった1匹が出てきたので、この歌を歌って起こしてあげようという完璧なめでたし展開で幕引きである。

 僕は通勤電車の中で、ごめんなさいの反対はごめんなさいませんなのかということをずっと考えていた。本当にそれでいいのか。そんな意味のない言葉でいいのか、そもそも文法的に正しいのか、どうなんだ。じゃあ僕ならごめんなさいの反対は何かと聞かれて何と答える。ごめんなさい、つまり謝るという行為の逆はなんだ、謝るの逆は、
①許す
②謝らない
③貶す
と考えた時に①は行動を起こす人が変わってしまうから違う、③は言葉の中にある意味を読み過ぎている、だから②番だと思う。謝らない時に言う言葉はなんだ、あなたに対して謝らないということを表明する時に、人は何と言うんだ、そもそもそういう時何か言うのか? 私謝らないからね、あんたが悪いんだから! とちょっと悪いと思っているけど意地を張って謝ることが出来ないヒロインが出てくる漫画を読んだことがある気がする。
 いや違う、そういうことじゃない、そういうことなんだけどそういうことじゃないのだ。僕が気にしていたのは、仮にも教育テレビ、今はEテレと言うそうだが、言葉をどんどん身につけていく時期の子供に対してそういう曖昧な言葉の使い方を教えてしまっていいのだろうか? ということだ。つまり教育的にどうなんだ、その辺問題ないのか、NHKはそういうことを許したのか? 親は何か言わないのか? ということが気になって仕方がない。僕はPTAか何かか。
 最近の少年漫画がどんどん性的になっているらしい。僕が子供のころのジャンプはいわゆるハプニング的なエロシーン、風呂に入ろうと思ったらヒロインが先に入っていたり、もう、意地悪な風! が吹いたり、こう何と言うかエロいシーンではなくてエッチなシーンくらいはあった気がするが、それがどんどん直接的な表現になっていると噂に聞く。それに対して、いいのか、大丈夫なのか、親は何も言わないのか、という気持ちになるのと同じ気がする。対象にふさわしい表現なのかということがすごく気になる。
 おかあさんといっしょのお歌、生き物じゃなくてもこの呪文を言えばたちまちみんなあくびをしてしまうんだよ、という内容のものがあって、バナナのあくびはバ~バ~バ~、車のあくびはブ~ブ~ブ~という具合の歌詞になっているのだが、よりにもよってゾンビのあくびはビ~ビ~ビ~という一節が何故か存在する。ゾンビは教育的にいいのか? 子供にゾンビって何? と聞かれたお母さんは何と答える? 生ける屍だよ~と言うのか? どうするんだ? この歌がゾンビとの出会いである子供ってたくさんいるんじゃないか? いいのか? 大丈夫なのか? と考えた時に僕のゾンビとの出会いはいつだったかを考えてみる、それが中々どうしてわからない。知らない間に知っていた。だから意外とそういうものなのかも知れない、つまり別に平気なのかも知れない。いやいやでもこれって教育テレビでしょ、別に教育テレビがゾンビとの出会いである必要はなくないか? 僕は一体どういう立場なんだ。
 そして僕は自分の保守的な性格を思い知る。口は災いの素、余計なことは言わないに限る。僕は将来自分の子供にゾンビって何かと聞かれたらなんて答えてあげればいいのだろうか。そういうことを考えながら電車は僕を会社へと運んで行く。社会に出てから、当たり前だが僕は使う言葉が随分丁寧になった。承知したり、恐れ入ったり、お世話になったり、失礼したりする。子供の頃はそうじゃなかったけど、今の僕がこうなのだから、子供の頃にゾンビを知っていたかとか、ごめんなさいませんと言ってみたりとか、そういうのって別にさほど気にすることでもないのだろうなということを思った。詰まらないことを気にする男だなとも思った。