ゴールデンウィークには草津、それはそれは幸福な思い出として、インターネットなんぞで発表するにはもったいない事柄である。観光地には子供がたくさんいて、僕はどういう訳か子供らしい言動をする子供をぼうっと眺めているのが好きだ。公共の場所で人様に迷惑をかけるようなことをする子供とそれを放っておく保護者にはどうにかしてくれという気持ちが湧かないでもないが、基本的に子供が台本のない無邪気さを披露している時というのはそれだけで幸せな空気を纏うものだと思う。この旅での個人的ベスト幼児賞はバスの車窓から見える送電線を束ねる赤い鉄塔を見てはニセ東京タワーと叫ぶ男児にあげたい。他にも路上に泣きながら寝転がりまだ帰りたくないのか何かを買ってほしいのか駄々をこねている子供、温泉のロビーに設置されたマッサージチェアで至福の表情を浮かべる父親の腹に膝から飛び込む幼児、温泉が湧き出る河原に靴ごと足を入れてしまい親に気付かれない内にさっと足を引っこめる少年など色々な子供を見たが、そういう子供たちを見ると僕が子供の頃もこんな風な世界との繋がり方をしていたのだろうかという気持ちになる。昔のことが基本的に信じられない、ちょっと前はコートを着ないと外出出来ないような季節であったことすら信じられないから、自分の子供時代のこと、殊他人から聞かされる僕の子供時代のエピソードにはそんなの有り得ない!という反応をしてしまうこともしばしばである。
今の僕というのは基本的には慎重で過度に憶病、他人のやんちゃは度が過ぎていても許すが自分の小さな落ち度(加害妄想も含む)にはとても敏感、そういう性質のせいで緊張してしまう時にはアルコールに身を任せて大逆転、言っていいこと悪いことの区別もつかずに脳と口がくっついて、仕舞には翌朝さっぱり記憶がないというもう生きにくいことこの上ない性格である。しかしながらある意味ではとっても大人っぽいと思う。大人はアルコールのようなトンデモアイテムがないと出来ないことがたくさんある、それはそれを言ったりやったりしてしまった後の自分が他人からどういう扱いを受けるかということをつい考えてしまうし考えるべきだからだと思う。
両親や親戚から伝え聞く幼少時代の僕は、祖父母の家の隣にある小さな会社のオフィスに勝手に潜入しお菓子を頂き、入るなと言われていた田んぼに入り足が抜けずに泣き叫んでいるところを近隣に発見され、道で老婆を見る度に金さん銀さんと呼び歩いたそうだ。当時そんな僕を見て、大人たちは僕の無垢な姿に心を柔らかくさせられていたのだろうか。今は過ぎてしまった自分の子供らしい時代のエピソードを知っている僕が今まさに子供時代を過ごしている子供たちに向けているのはもしかすると羨望のまなざしなのかも知れない。いや人前で駄々をこねたいとは思わないが、もう少し積極的になれたらとは思う。緊張した時は観客を野菜だと思えば良い、とは少し違うが、他人をいないものとして気持ちの可動域を少し広げてみるということが僕に必要な考え方のような気はする。
ところでこれが中学高校、まだ出てそこまで時間が経っている訳でもないのに大学時代の自分ともなるとこれは懐かしさの意味が違う、子供っぽくて無垢で純真みたいな感想では済まされない、大人を夢見る少年の香ばしさがチリチリと脳の記憶の溜まっているところを刺激してたまらなくなる。大学時代はそういうサークルに所属していたので、自分が書いた小説を最近読み返してみたのだが、僕はどうやら他の学生たちと同じように他とは一線を画す何者かになりたかったようである。小説を書くという行為自体を恥ずかしいものだと思うということは決してないが、今の僕にはきっと書けないようなギラギラとした野望めいたものがわかりやすくちりばめられていた。限られた青春時代に何かを残そうとする爪の跡を強く感じる。今の僕がどう変わったのか、自分を客観的に評価するのは難しい、でも色々な場面で僕も大人になったなあと思うようになった。明日から会社なので、旅先のお土産を持って出社をする予定である。最近はそのような仕事が多かったので、自分の会社の約款の何条にどんなことが書かれているか、ある程度空で言えるようになってきた。