2017/10/14

アジアのおじさんとの交流の件

遅刻して恥をかいたり、誰かに迷惑をかけることが怖い。誰も僕を嫌わないでほしい、時間にルーズなやつだと思われたくない。あと、満員電車に乗りたくない。人混みが嫌い。自由が利かない、身動きがとれない、暑い、緊張する、僕のプライベートはどこに。そういう人はどうするかと言うと、頼まれてもないのに早朝出勤をするようになる。
早朝出勤にはいいことばかり。まず電車が空いている。さすがに座れはしないけど、否応なしに他人と身体を密着させて息も絶え絶えみたいな状況とは縁がない。遅刻だって当然しない、ちょっと電車が遅延したくらいでは焦らなくなる。緊張せず、そわそわして大丈夫かな、間に合うかな、なんて気持ちになって、冷や汗で額を濡らすこともなくなる。会社にいっても社員は誰もいない。会社の隣、空いてるコンビニで買ったおにぎりでもかじりながら、パソコンで新聞を読む。みんなよりも先に仕事を始めて、朝一の会議でも準備万端。始業ぎりぎりに来て急いで準備なんてダサいことはしない。唯一難があるとすれば一日中ぼんやりと眠たいことくらいである。これはなかなかしんどいけれど、それを差し引いても朝早く会社にくることにはメリットがある、と僕は思う。

早朝誰も出勤していないオフィスでは、ビルを管理している会社の清掃員のみなさんが先に仕事を始めている。彼らは必要以上に腰が低くて、1階のエレベーターホールにモップをかけているおじさんはいつも大きな声でおはようございます! そして僕のためにエレベーターのボタンを押して待ってくれたりするのでそれはそれは恐縮である。そういう教育をされているのかも知れないけど、すごくお客様な気分でなんだか尻込みしながらオフィスへ行くことになる。
僕が務める会社の、僕の席があるオフィスは5階、始業は9時半だが僕が来るのは2時間前。その時間にくるとちょうどいつものおじさんがタイムカード近くのごみ箱の中身を入れ替えている最中である。小柄で、ぽっちゃりとして、まつげの長い、アジア人なんだけど日本人じゃなさそうだなという雰囲気があるおじさんの、胸元には名前が書かれたバッジがついている。やっぱり日本人じゃなさそう。カタカナだし、日本人の名前にはそんなにたくさんパ行の文字は出てこない。
おじさんはいつもにこやかな笑顔でおはようございます、1階のおじさんよりはトーンは抑え目だが1階のおじさんの元気が良すぎる、朝はこれくらいでいい。おじさんが笑顔なので、僕もできる限りの笑顔を作っておはようございます、そうして朝が始まるのであった。
このフロアでのおじさんの仕事の流れはこうだ。まずは座席付近に点在しているゴミ箱の中身を回収するために、座席の島の間を縫って、ゴミを回収するカートを押して歩く。これが一通り済んだ後、コードレスの掃除機を持って、また同じルートをたどっていく。この時座席の下、座る時に脚を収める部分にも掃除機をかけてくれるものだから、僕がいると僕の座席の下を掃除できず、おじさんの仕事の邪魔になってしまう。そろそろ僕の席のところに来そうだなと思ったら、何気なくトイレに立ったりしてタイミングを外してみたりしている。そうして巡回が終わったら、失礼しますと言ってオフィスを出ていく。この失礼します、の時、すなわちおじさんが仕事を終えた時にもまだ僕の他には誰も出社をしていないので、これは僕しか受け止めることのできない言葉。この失礼しますが空を切って誰に届くこともないものになってしまうのが切なくて、オフィスを出ようとするおじさんの方を向いてどうも、と頭を下げてみたりしている。僕が朝から社外で仕事のため、現地に直行している時以外はいつもこのような流れで始業を迎えている。僕は結構このやり取りを気に入っていたし、たまに違うおじさんが代役なのかフロアにやってきたりすると、あれいつものおじさんどうしたのかな、なんてちょっと不安になったりもする。おじさんとの交流は、早朝に出勤しなければ成しえない貴重なコミュニケーションなのであった。

僕が務める会社は組織改編が好きな会社で、上期から下期になる時、年度が替わる時、絶対と言っていいほど新しい組織が出来たり、つぶれたり、一緒になったりしている。僕も今年で入社5年目になるが、今までに名刺が5回も変わっている。10月から下期になって、やはり新しい組織ができた。今回は結構大きな改変があって、座席が5階から7階になったり、なんて人もたくさんいた。僕の部署は特別変わりなかったが、僕がいる5階のオフィスはほとんど全員が座席の引っ越しをすることになった。
引っ越しの対象者は荷物を指定の段ボール箱につめて、個人ごとに割り振られた番号を箱に書いておく。そして土日の間に引っ越し業者の人たちが新しい座席にその箱を置いておいてくれる。月曜日に出社したら新しい座席で荷解きをして、業務を開始してくださいねという具合である。荷解きの後には使い終わった段ボール箱がオフィスの片隅に山積みになった。
荷解きが終わった次の日に、いつものように早朝出勤をするとあのおじさんがちょっと戸惑ったような顔をして僕に話かけてきた。
「この段ボール全部ゴミかな?持って行ったほうがいいかな?」
おじさんとはおはようございます、と失礼します、のやり取りしかしたことがなかったから、不意に面食らって、一瞬まごつく。おじさんは見た目だけなら外国人であることを意識しすぎるようではないけれど、しゃべっているところに出くわすとやはり外国人であった。日本語はとても上手だが、発音は母国語の後に習得した人のそれであった。
「これはね、先週引っ越しがあったから、その時に使ったやつなんだけど、業者の人が持っていくからそのままにしておいて大丈夫だよ」
僕はなんだか必要以上に丁寧に、幼稚園児にしゃべるような声でそう言ってしまった。その人が僕と同じ語彙を持っている人かわからない時、僕は変に丁寧になってしまう癖があって、田舎の祖父母と会話する時も、祖父母でもわかる言葉を選ぼうとして、そこまで意識しなくてもというくらい丁寧にしゃべってしまう。おじさんを外国人であると強く意識してしまったからか、敬語もうまく出てこなかったし、言った後からこれで大丈夫だったかなと不安になった。箱には引っ越し業者の社名が大きく刻印されていたし、総務の人が後で業者が回収にくると話していたのを聞いていたので、間違ったことは言わなかったはずである。
するとおじさんはほっとしたような顔をして「そうなんだね、今ね、これ持って行こうと思てたよ!」と言った。ちゃんと伝わったようで、僕も思わず安堵の笑み。「先週引っ越しがあってね、5階から7階に行ったり、7階から5階に来たりしたんだよ」と会話をつないだ。
するとおじさんは「そうなんだ、お兄さんはここ?」と言うので「僕はここだよ」と言った。おじさんは笑みをたたえたまま「よかった!これからもよろしくお願いします!」と言ってくれた。
僕はかなり人との会話が苦手で、誰かに何かを言われても急に反応ができなかったり、なんて言えばいいかわからなくなったり、他人から言われたことに対しても、実は腹に一物持っているのではないかなんて思ってしまう。でもおじさんの片言の言葉と笑顔が、なんだか心からそう思って言ってくれているように感じさせてくれて、もしかして朝、頭が働いてくる前だったからかも知れないけれど、とても素直にうれしくなってしまったのであった。多分日本語は複雑すぎて、表層的な部分の裏に潜む表現を持ちすぎているから、いろいろな可能性を考えて不安になってしまうのだと思う。そういうところを全部取り払った、シンプルなコミュニケーションの楽しみがおじさんとの間には存在していた。
僕もおじさんに笑顔を返す。残念なことに僕は身も心も日本人なので、日本人らしい薄い顔、表情が読みにくい顔立ちをしているから、心から嬉しい気持ちを表情で表現できているのか不安になる。それでもおじさんは笑顔でいてくれたから、何とか大丈夫だったのだと思う。今日はなんだかいい気分で仕事が出来そうだな、とすら思えたりするから、コミュニケーションって大切なんだななどと基本的なことが身に染みた。