2017/12/29

最終的に八万円の歯でハーゲンダッツを食べた件

 起きる時間じゃないのに起きてしまう時というのはちょっとトイレに行きたいな、という時ばかりで、だから歯が痛くて起きてしまうなんていうのは痛い痛いという感覚ばかりか混乱、今自分がどんな状態なのか、寝起きの頭が平時のはたらきを出来るようになる温度まで温まり切っていないこともあって訳もわからず、暗い部屋の中、頬を押さえてうずくまってしまう。次第に頭が冴えてくると、奥歯が痛い、この歯が痛い、はっきりと、左の下、一番奥の歯の根のところ、脈打つような痛みの波が行っては引きを繰り返していることを、そしてその痛みが頭にも伝わって、額の平らなところを内側から叩くように責め立てていることがわかってくる。

 この歯が痛いということには思い当たる節があって、一年ほど前のこと。少々の違和感があって歯医者に行くと虫歯があることがわかり治療をしたのがこの歯であったが、すっかり忘れていたのは実はこの歯が幼いころに一度虫歯の治療をしたことがある歯であったということ。白く見えるのは歯に似せた詰め物であって、その詰め物の下が再度虫歯になっているとのことであった。僕からしてみればそんなもの、鍵を持っていない部屋の中を掃除しろと言われているようなものであって、日々の歯磨きを心がけましょうと言われて防げるものではないように思って何だか理不尽だと感じてしまったが、歯科医から言わせると別に珍しい事象ではないようで、治療して詰め物をしたからと言って金輪際虫歯とは無縁という訳ではないらしい。詰め物ごと虫歯を削って再度詰め物をする治療をすることになった。
 その治療自体は何か特別な対応を要するものではなく、歯を削って、穴を埋める、それだけであって、あまり時間はかからずに完了した。ただ一度治療済み、一回削った穴をさらに深く削ったため、かなり神経に近いところまで穴が開いている状態であると言われた。次同じように削ることになってしまったら、もう神経に触ってしまうので、神経を抜いてしまうしかなくなるということである。

 一年後の今痛い歯はまさに二度治療をしたこの歯、こんなにも早くその時が来てしまったのか、手で頬を押さえていると少しだけ痛みが落ち着くような気がして、片手で強く頬を持ち上げながら、そうだと思い出してもう片方の手で手繰り寄せるスマホ、何かがあるとすぐに検索を、この痛みの正体を明らかにする必要があると思い、眩い画面に目を細めながら「歯 痛み 夜」などと検索をしてみる。するとどうだ、やはり夜だけ痛みが現れる患者はある程度いて、人間の神経の在り様からいって夜に理由のある痛みであることがわかった。応急処置として冷やすだとか、市販の頭痛薬を飲むだとか、指の股にあるツボを押すだとかいろいろなことが分かったが歯が痛い時に指のツボなんて押していられるものか、もうその後はただひたすらに頬を押さえてうずくまるばかり、外国人が大きく感情を動かされた時に神の名を呼ぶ理由がわかる、もうこれは神にしか解決できないのではないかとすら思った。

 こうなってしまった以上餅は餅屋、専門家に見せるしかない、以前僕の歯を削った歯科はメールで深夜でも受付窓口を開けていることを知っていたから、歯の痛みについて調べたその手で詳細に事の次第を伝えると、返事の電話が来たのは翌朝十時ごろ。痛みを堪えて布団にもぐり、少し和らいだかに思えた隙に眠ってしまったらしく、次に気が付いたのは目覚まし時計の音、すると痛みは引いており、悪夢のような夜のことを思って心をすり減らしながら逃げるように会社。朝の会議に備えて準備をしていた時のことだった。痛みの次第についていくつかの質問に答えた後、今日来られますか?とのことで早速その日の夜に予約を取った。

 その日の夜、終業から間もなく会社を飛び出て歯科医へなだれ込み、昨夜の痛みのそれはそれは恐ろしかったことを伝えると、痛みの可能性としては二つ。インターネットが言うように神経が炎症していること、もう一つは噛み合わせによる筋肉への負担、とのことだった。僕の歯を見てみたところ、ずいぶんとすり減っていることがわかるらしく、人よりも顎の力が相当強いなどと言われた。このせいで歯、およびそれを支える歯茎や筋肉に負担がかかり、痛みが出ている可能性があるとのこと。正直に言ってそんなレベルの話ではないと思ったが相手は専門家である。歯に強い力が加わらないように、少々奥歯の高さを低く整えましょうなどと言われて、回転する機材を歯に当てられれてその日は終了。一応頓服を出すから痛かったら飲むように、もしこれで改善しなかったらやはり神経の炎症かもしれないからその時は治療しましょうと言われて初夏のぬるりとした空気の中。とぼとぼと家路につく足取りは重かった。絶対に違う気がする、顎の力が強いからだなんて、根拠はないがバカげていると思った。

 家に帰るとまた歯のことについて調べてみる。歯の神経を抜く、ということをしなければならない場合があるということは何となく知っていたが、調べてみるとふうんそんなことをしなければならないのか、などとその詳細については初めて知ることばかりであった。例えば歯の奥に根を張るようにしてある髄の部分を、細長い針金のような機材でぐりぐりほじくって掻き出すだなんて何だか原始的にすら思える治療を要するだとか、神経を抜くと温度や痛みを感じられなくなるからもし虫歯になっても痛みで気づくことが出来なくなるとか、温度の不感は味の不感につながるからものをおいしく感じられなくなるなどと言う人もいて、この炎症した神経のせいであんな痛みが起こったのだとしたら一刻も早く神経なんて抜いてしまえと思っていたが一抹の不安。医者が簡単に抜きましょうと言わない理由も何となくわかった。

 だがその日の深夜、そんな余裕ぶったことを言っていられなくなるくらいの痛みが、やはりと言うべきかやってきて、僕の眠りを妨げるので急いで頓服を服用、掻き出した耳垢くらいの大きさの薬の粒にこの痛みをどうにかできるのか甚だ不安ではあったが藁をもすがる思いである。僕はこれはやはり噛み合わせがどうだという問題ではないことを確信して、そのまま再度来院の予約を入れたのであった。

 一週間後の夜、もう昼間平時でも少々の痛みがあり、それが深夜になると毎度おなじみと言わんばかりに必ず強引な痛みの来訪があった。僕はいよいよ神経とおさらばするつもりで歯科へやってきた。担当してくれたのは歳もあまり僕とかわらないように見える若い女医さんであったが、彼女は非常に丁寧で、声も優しく、ああ彼女が僕の歯の痛みを取り去ってくれるのだなあと思ったら実の母にも久しく感じていない母性すら感じられた。

 神経を抜く治療というのは何段階かに分けられるそうで、まずは歯の真ん中に大きく穴をあけ、直下にある髄の塊をほじくり出すと、次に根っこに残った細い髄を掻き出す作業を何度か繰り返す。この時細い髄の管に少しでも髄が残ってしまうとこれがまた痛みのもとになるから、焦らずに何度も掘っては薬を注入、また掘っては注入を繰り返すのだとか。掻き出し切った穴に最後の薬を詰めて蓋をする。その後歯全体を削って小さくし、上から義歯を被せて完成である。今日の治療で歯に穴をあけて大きな髄の塊を除去するところまでは完了するし、それを済ませれば大分痛みは落ち着くはずである、ということを事前に説明してくれた。こんなにも真剣に人の話を聞くのは前回のことを思い出せないくらい久しぶりのことだと思った。

 痛みを発している神経に触れる治療であるから麻酔は念入りに行うとのことで、何度かに分けて歯茎に薬液を流し込まれていくともう口を閉じることもままならない。頬の内側を噛み切っても痛くないのではと思えるくらいに麻痺してしまって、機材が起こす振動だけを感じながら歯に穴を開けられていく作業に、今夜からは健やかに眠ることが出来るのかしら、なんてのんびりとした気持ちで数十分、口が小さいので無理に大口を開けて機材を受け入れる時間は短くともかなり苦しさがあるがこれを乗り越えれば痛みのない時間が待っている。なんて思っている間に女医さんから口をゆすぐように言われて起き上がるともう大方神経の除去は完了したとのこと、治療の際に歯から血が噴き出して、僕が相当痛みを我慢していたことが察せられたというようなことを言われて恥ずかしいような恐ろしいような気持ちであった。
白い歯から血鮮がブシュ、と飛沫をあげるところを思わず想像する。

 実際その日から僕は忘れかけた快眠を思い出し、深夜に起こされることもなくなった。仮の詰め物をしているので食べ物も普通に食べられたが、温度がわからないからものがおいしくないだなんて、味を感じるのは舌の仕事だろう、神経がある時とない時の、その違いがまるでわからず、なぜ最初から抜いてくれなかったんだ! とすら思った。そもそも最初から歯に神経なんて通っているのがまずおかしいのだ、総入れ歯の人は味がわからないのか? そんなはずはないだろう、少しでも迷う気持ちでスマホを握った過去の自分をばからしく思うくらいにその日の夜は快適だった。前回は一週間分が三日でなくなってしまった頓服も、今回は全く使わずに次の診療の日を迎えたほどである。

 初回の治療はもうしばらくすると梅雨に入るかと思われるくらいの時期であったが、ではこれで治療はおしまいですので半年後に定期健診に来てくださいねと言われて医院を出たのはもう朝晩コートとマフラーが必要になるくらいの頃であった。僕の神経の管はまあそれはそれは細かったらしく、少々時間がかかったとのことだった。また歯の被せもの、自分の歯を小さく削って上から義歯を被せるのだが、よくある話、保険が適用されるのは銀歯だし、審美性のためにセラミックなどの白い石を入れるのであれば適用外なので実費負担になるのだが僕はわがままを言って白い歯を入れてもらうことにして、これがうまく歯にはまるようによく調整をしてもらって(あまり元の歯を小さく削りすぎると義歯がすぐ外れてしまうが、僕の元の歯がかなり低めだったので、それを削るのが少々大変だったとのこと。)、それにも時間がかかった。保険が適用されるとどんな金額になるのかは聞かなかったが、ちなみに僕が入れた白い歯は八万円である。ひと月の家賃よりも高い。

 銀歯にするか否かの選択を例の女医さんから迫られた時、僕は普段仕事で接している何人かの人が、談笑する時に口の奥でギラリと異質なものを光らせていることを思い出して、安いからと言ってここで金を出し惜しんでしまったら、僕のことだから絶対に後悔するに決まってる、彼らみたいに会話の相手へ銀色の歯を見せびらかしていることにふと気づいて、今よりもっと内向的になってしまうかも知れない、なんて、僕は自意識過剰であった。それだけにほかの歯と同じ色であることは譲れず、8万円くらいちょうどボーナスが出る時期でもあるしと思って、半ば即決に近い。白い義歯にはいくつかの種類があったが、最初の診察で顎の力が強いなどと言われたので最も硬度があるジルコニアという素材の歯を作ってもらうことになった。

 痛みのない白い歯を手に入れた夜にハーゲンダッツを買って、痛かった方の歯にわざと当てて食べた。甘ったるさと冷たさが、歯なのか、その周辺の皮膚や舌からなのかわからないが、それだけが伝わってきて、鏡でよく見てみるとそこにはつるりとした白い歯があり、ああ僕は自分で働いて得た金でこれを手に入れたのだな、なんて思うとまたそのアイスの旨いことといったらなかった。今年はまあまあ仕事がうまくいっていたこともあって、よく考えれば最初から歯に痛みが出ないに越したことは無いわけだが、高い歯で高いものを食べているぞ、そんなことが出来てしまうんだぞ、というようなことでもって何だか今年の僕は充実しているなあ、なんて気持ちになったのがこの年末の出来事。今年を振り返ろうとすると歯と仕事のことばかりが思い浮かぶ。