2018/02/12

論理的な考え方ができる人には敵わない件

 僕もかっこつけてロジカルな考え方をしたかのようなものの言い方をすることがある、もといそんな意見を出せるなんてロジカルな思考を身につけているのだなあなんて思われちゃったりして、などと期待をしながら発言をすることがある。要するに論理的な思考に基づいた発言に価値を感じているから、僕もそういう話し方ができるようにがんばろうとあえて意識して思っているということである。
 まず論理的に物事を考えるためには、ある事象の因果関係をしっかりと把握している必要がある。手が黄色くなっちゃったよ、それはミカンを食べすぎたからだね。何かが起こった時に、なぜそれが起こったのかということを瞬時に理解できる能力と、例えば手が黄色くなってしまった彼が、田舎のおばあちゃんが善意でたくさん送ってくれたから食べきらなければ悪い気がしてという条件を持っていた場合に、隣人におすそ分けするとか何か回避策があったはずだ、隣家の人間とは親しいと聞いているし、何か手を打つことができたのでは? というところまで先回りして状況を整理出来てしまう能力を持っていると、そこから作り上げられる理論はかなり強固なものになっていって、つまるところ手が黄色くなってしまうという事象は十分に回避できたはずなのに、彼の思慮が浅いために避けることが出来なかったのだ、ということになってこの話は結論にたどり着く、理論的な考えが身につくとすぐに結論が出てしまう。
 今の僕がその例えに出会ったらどうなるか、手が黄色くなっちゃったんだ、どうしたの、実はミカンを食べすぎてしまってね、そうかいミカンっておいしいよね、と言うに決まっている。おばあちゃんが善意で送ってくれたものを腐らせてしまうのも何だからさ、そうかいそれなら仕方ないね、なんて絶対に言う、間違いない。
 基本的に僕は相手の発言に対して、それはこのようにしたら良かったのではないかとか、別の対応をしていたらこのような結果だったのではないかとか、そういう建設的な意見を言うというようなことがあまりできない。それは咄嗟に脳が追い付かなくて、会話のキャッチボールのテンポでうまく論理的に正しいと思われる答えが導き出せないということも往々にしてあるが、性格上そもそも論理的な考えに基づいて意見を言おうという頭になっておらず、例えば祖母の善意のミカンをたらふく平らげるなんて健気だなあとか、おばあちゃんも喜んでいるだろうなあとか、とっさに思い浮かぶのはそういう感情的な意見ばかりなのだ。僕はきっと正しくそのようであるという理屈よりも、その時その人がどんな気持ちだったのかということを指標に物事を考えてしまう性格なのだということである。たとえばなしがミカンで手が黄色くなってしまうなんて簡単なものであればまだいいが、なんてリアクションすれば良いのか全くわからなくて少々沈黙してしまうことすらある。瞬間的にわからない時、脳はその言葉を発した彼がどんな気持ちでそれを行ったのか必死で考えて、それが何となくこういうことかも知れないという理解に至ってから、その気持ちに対して返答をし、その間およそ3秒ほど、言った後からそういえばそれって論理的に正しい返しになっているかなという思考がやってきて、言葉につまって、どもって、言葉尻がしぼんでゆく。スムーズなキャッチボールが出来ているとは言えない。だから僕は会話が苦手なのである。もし漫才をやるなら僕はボケだ。しかも論理的なツッコミを期待してボケた発言をするわけではない、自分が感情的にしか理解できていない話をして論理的なツッコミによって解釈されて返ってくるのを聞いて関心するという大ボケである。
 僕は論理的な考え方ができる人のことを尊敬しているし、論理的な意見を聞いてなんて論理的なんだろうと思う時ほど、誰かに対して感心することはない。僕の思考や発言の真意もすべて見透かされているような気がしてしまって、半ば諦めに近い。窮鼠は猫を噛むと言うが、自分の運命を悟り、両手を組んで天を仰ぐ鼠もいるだろう。きっと敵わない、一矢報いてみても良いが、思い切って前足にガブリと噛みついてやろうと思っていることすらバレているに決まっている、そしてその後どんな動作で自分を口の中へほうり込めば良いかということもわかっているに決まっているのだ。論理的な考えを唱える人の前で、僕はいつも猫のごはんになってしまう。
 今自分の身近な人でこの人理論的だなと思うのは恋人のこと。僕がこの間こんな話を聞いて、こんな風に思ったのだという話をしてみると、それってこうすればいいんじゃないの、というような会話の構図。僕はその構図にはまるとああなるほど言われてみれば確かにそうだなんでそれに気付かなかったのだろうガッテンガッテンという気持ちになって、ただただ関心というか、解けなかった計算問題の解き方を教えてもらった時のようなすっきりとした心持ちになれる。それも間髪入れず答えが返ってくるのだ、僕のようにあえて論理的に考えようだなんて思わなくても、自然とそのような思考回路が出来上がっているように感じる。だからあえて、僕が論理ゼロで行った行為などについて話すことがある。なんか可愛いからこれ買ったよなどと言って何に使うのかわからない家具の写真を見せたりして、何て言ってくれるだろうなんて期待しながらそんなことをすることもある。おそらく僕はこの先急に彼女のような賢い頭になれることも無いと思うので、つまり敵わないのであった。