家に帰ったのは日付が変わろうとする頃で、スーツを脱いだらすぐにコンビニで仕入れた飯を食い、風呂に入って寝るつもりだった今週の月曜日に、僕は家のガスが止まっていることに気が付いた。それは雑な飯を雑に頬張り、服を脱いで浴室に入ってからの出来事、せめて手を洗うなどする時に気付きたかったものだが帰宅後に必ず手を洗うなんて小学生の時でもやったかどうか。すぐにお湯が出ると信じて疑わなかったシャワーからは延々と冷水が注ぎ込まれ排水溝に飲まれてゆく。
足元に触れる冷水に耐え切れず一旦浴室を出る、洗面所の水道、お湯が出る方の蛇口をひねってしばし待つ、やはり一向にお湯が出る気配は無し。試しに台所のガス台にも手をかけてみると、これも全く火の出る気配がない。真冬の深夜に全裸の僕の心に一抹、原因は、ガスが止まってしまった原因はあれではなかろうかという気付きがあり、全裸のまま玄関の靴箱の上、無造作に置かれた紙を手に取ると「安全に関する重要なお知らせ」などと書かれている。
つまりガスの安全な動作を確認するため、何年かに一度訪問検査があるとのこと、家主が立ち会う必要があり、本日訪問したが不在だったため、別の日に申し込んでほしいという内容の書類で、そのような案内が複数回ポストに投函されていたことに僕は気づいていたが、生来のめんどくさがり、またおそらく平日にしか受けられない点検のために仕事を休むこともできず見て見ぬふりを決め込んでいた、ということがここしばらく胸の奥、あえて触らなければ気付かないようなところにあって、ガスが止まってしまったことで急速にそのことが思い出される、きっとこれをシカトしていたのが原因だ、これが原因で止められてしまったに違いない、という思いに駆られた。公共料金はすべて自動引き落とし、未納なんてあり得ない、きっとこれは何かが要因となって故意に止められてしまったに違いない。
一旦服を着てからパソコンの前、その書類に書かれている点検を無視するとどうなるのかと検索してみるとほらやっぱり、無視し続けるとガスが止められてしまうことがあるだなんてことを謳っているブログが出てきた、きっとそうだ、僕が数か月それを無視していたから止められてしまったんだ。仕方ない、今日のところは風呂は諦め、る訳にはいかない、せめて髪の毛だけでも洗いたい。整髪料を付けたまま寝ると翌朝、寝汗と枕の布の繊維が絡みついて不潔極まりないことになる、どうしても髪の毛だけは洗いたいと思い、いろいろなことを考えて、まあ気合で行けるかも知れんと思った僕はすぐに後悔することになった。へっぴり腰で頭だけを冷水のシャワーに当たるようにしてみると、水が頭に触れたそばから重い頭痛がしてきた。冷たさが鋭い痛みとなって身を刺したが、中途半端に髪を濡らしただけだなんて何もしないよりたちが悪い。本当は身体まで気合で洗えてしまうかもな、なんて、高校時代の部活でふざけあって浴びた冷水のシャワーのことを思い出していたのだが、どうにかろくに泡立ちもしないシャンプーを終えるので精いっぱい、脱衣所の鏡に映る哀れな濡れねずみが一匹。念入りにドライヤーをかけた後、再びパソコンの前に戻り、すぐに検診の予約を入れた。仕事のスケジュールなどを考慮して最も早いのが金曜日の午前中。月曜日は気合の冷水シャワーだが、火水木と3日間もそれを続けるわけにはいかない。僕はそのまま遅くまで営業している銭湯の場所を調べ始めるのであった。
ガスが止まったというのはなかなか状況としては面白いと思ったので、いろいろな人にそのことを話した。実は今家のガスが止められてて、などと話し始めると皆そろって滞納を疑うものだから、いやいや実はそうではない、定期検診をフケていたら止められてしまったのさ、なんて、そのテンプレートをこの短い期間に何度も使った。料理はしないので問題ないが、冬場にお湯が使えないのがちと苦しい、近所の銭湯は早めに終わってしまうので、早く帰らねばならぬのだと言えばひと談笑出来上がる。日頃話題のない僕だ、確かにガスが使えないことを不便に思っていたが、つまりちょっぴりおいしい状況だとも思っていた。月曜に止まって金曜まで直らずに過ごしたというエピソードが出来上がれば、きっと一つ宝物が手に入ると思った火曜日、僕は半ば得意げになってガスが止まった話を披露したりもした。
水曜日、例によって今ガスがと話し始め、どうやら原因は検診をさぼっていたからだと言うと、ガス屋に電話をしたのかと聞かれた。そしてそこではっとする、その手があったか、という気持ち半分、やっぱりそうだよなという気持ちが半分あって、つまりとりあえず急いで検診を受けるから一旦復旧させてほしい、そもそも原因はそれで確かなのかとガス屋に問い合わせるということもできたはずだが、無意識のうちにその案は取り下げられていて、おそらく原因は検診を受けていないからだろうから待つしかないという姿勢を取るということに決めた、という会議が僕の脳内で行われた跡があったことに気付く。それ電話したの? と聞かれた時に、今まで目をつぶっていた可能性を呼び起こされはっとした、そしてやっぱりそうするものだよね、なんて気持ちが後から追いかけてきたのであった。
この度のことを、銭湯の熱い湯に浸かりながら今一度考えてみると、僕はつまり話題というかトピックスが欲しかったのだ。誰かと会話をしようとする時のために、実は検診を無視してガスが止められて冷水シャワーを浴びて一週間もガスが使えなかった、というエピソードが欲しかったのだ。きっとすぐに直ってしまうよりその方が面白い話題として僕の持ち物になるから、誰かとの間に生まれてしまった沈黙を埋めることが出来る道具になるから、よく考えてみるとそんな風に思いたくて、お湯を作る方法は他にもあったのにあえて冷水シャワーを浴びてみたり、もしかしたら原因は違うところにあるかも知れないのに黙って検診の日を待っていたり、僕の行動の裏に、こんなことをやったらきっと話題になって、誰かに話せば笑ってくれるだろうなんて気持ちがいつもあることに気が付いた。偶然の状況をおいしいと思うんじゃなくて、こんなことしてみたらおいしくなるな、なんて気持ち、それはつまり誰かを喜ばせて笑わせたいということではなく自衛というか、気の置けないおしゃべりが苦手な僕に自然と備わった、あえて変なことをしてみようと試みる深層心理の証明であって、それはなかなか情けないというか、恥ずかしいというか、ずいぶんとむなしい自分の特長に気付いてしまった。思えばスポーツ未経験の状態で急にラグビーを始めたりとか、医者から健康を心配されるほど痩せてみたりとか、そういうのも全部、そうなのかも知れないなと思った。僕はいつから人としゃべるのが苦手になったのだろう。
金曜日の朝にとても愛想のよい男性の検査員がやってきた。訪問で検査をする仕事のために研修を受けたのだろうと思った。これから検査を開始しますという挨拶をされた際に、実はガスが止まってしまっていて、検査のついでに見てほしいと伝えると笑顔で了解しましたと言う。これで実はあなたが検診を無視していたから止めちゃったんですなんてことを言われたら両者バツが悪いが、今思えばそれはそれで話題になるというものだ。きっとそういう気持ちだったのだろう。
外のガスメーターを見てから部屋にあがってきた検査員曰く、ガスのメーターは震度5以上の地震を感知すると安全のため自動的に動作が止まるような仕様になっているとのこと。そしてメーターは地震以外に、例えば何か荷物がぶつかるなどして強い衝撃が加わると、それを地震と判断してやはり動作を止めてしまうのだとか。そして僕の部屋のメーターは大家の居住スペースにあり、もしかすると大家がそのそばを通る時などにぶつかってしまったりして、なんて、つまりその緊急ロックを解除したのでもうガスは使えるはずですよと言い、あっさりと冷水は温んだ。何ともあっけない幕切れに、少しがっかりするような気持ちすらあって、ただ事実を曲げるような嘘はつけない。嘘をうまく演出できるような話術がない。まあ、検診を無視したことが原因だと思って一週間ガス無し生活を我慢したけど全然そんな理由じゃなかった、というオチでも及第点かも知れないなと思った僕は、どんな風にそのことを話したら面白くなるかなんて考えながら、半休明けの出社をする。