2018/08/11

死は二人を分かつ件(平成最後の夏の思い出④)

6月某日、高校時代に同じクラスで過ごした友人であるところのYとKの3人で新宿の焼き鳥屋に集まった。Kが仕事で来れなかった日にYとふたりで見つけた西新宿の隅にあるこじゃれた酒場である。
Kは8月に結婚式を控えている。親族と極限られた友人しか呼ばないというその会に、Yと僕を招待してくれるとのこと。それのみならずなんとYと僕に友人代表のスピーチを頼みたいときたものだから、断る理由はない。当日どんな段取りで僕らの出番がやってくるかという確認のために皆で集まってまあ酒でも飲みながら、ということになった。結局その場ではただ普通に酒を楽しんでしまい、何かが決まった訳ではない。要は時間をやるからYと僕に任せるといった具合である、気安い友人関係にありがちなことだ。

昔から文章を作るのは得意で、よく作文の宿題が出た時には代行1回100円で請け負っていた僕だ、スピーチ原稿を考えるなんて造作も無いことである。ただ一つ問題があるとすれば、僕が極度のあがり症であるということだ。
Kの結婚式は軽井沢で行うと言う。Yが車を出すというのでありがたくそれに乗っかっていくことにして当日、スピーチ原稿を印刷した紙をジャケットの内ポケットに忍ばせて、今日は朝から胸がどきどきと高鳴る。人前に出るのがどうも苦手である。今日の主役は僕ではない、いざ自分が主役になった時にどうなってしまうのだろうと思うと胸ではなく胃が痛くなった。
式は土曜日、現地にYと一緒に一泊して、日曜日にアウトレットでも楽しんでから帰ろうということになったので半ば旅行気分でもあった。席の限られた友人代表として僕らを呼んでくれたというありがたさもある、Kのために今日はしっかり役目を務めてやりたい。そしてKとは不思議な縁もあって、Kとは高校からの友人なのだが、Kのお父上は中学校の数学教諭であり、なんと偶然僕が通っていた中学校に赴任しており、実際僕もKのお父さんに数学を習っていたのである。だから高校の教室で初めてKと会った時、君のお父さんに数学を習ってたよという会話をKとしたことをよく覚えている。今日は久々の先生との再会でもあるのだ、なんだか色々なイベントが重なって僕も少々混乱気味である。正午ごろから開かれる挙式へ向かうために、今日はかなり早起きをした。Yも前日遅くまで仕事をしていたと言うが運転はお任せ、普段車で営業の仕事をしているYの運転は軽快であった。

宿泊するホテルに車を停めてからタクシーで会場へ向かった。軽井沢で挙式をするなんてどれだけお金がかかるのだろうなんて思わないと言ったら嘘である。会場はすごく大きな建物という訳ではなかったが、自然の中で質素かつ厳かに設えられた、上品であることの協調のために小さく象られた料理のようであって、ああこの後神聖な儀式が行われるのだなあと感じさせられるには十分な雰囲気をまとっていた。案内係の方に通されると、Kと、初めて顔を見るKのお嫁さんの写真が飾られた待合室。署名替わりに渡されたメッセージカードにはいい天気でよかったねと書いた。友人宛のメッセージである、何気無いことの方が良いに決まっている。

チャペルでのイニシエーションを経て披露宴会場で食事と言った具合である。聖書の一説が刻まれた本がチャペルの座席に置かれている。Yと僕はそれを手に取って座し、間もなく深い青のタキシードに身を包んだKが入場すると、友人たちのこの光景を見るたびに同じことを思う、僕が同じ立場になる時、きっと緊張でまともな顔をしていられないだろうなということ。
神父は片言の外国人。父親に手を引かれて後から入場した新婦と、傍らに立つ新郎の前で、神父は厳かに儀式を執り行う。幼いころでも知っていた、このシーンはドラマや映画でもよく描かれる。結婚する男女はこういう儀式をよくわからない外人の前で行うものなのだ。それでも実際のものを見てしまうと、ああリアルにはこうなのだなとか、そういう順番で言われるものなのだななんて、なんだか落ち着けずに神父の一挙手一投足に注目してしまう僕がいた。正面を向くKの顔は見えない。あなたが生涯を誓う相手は誰ですか、神父に問われKははっきりした声で新婦の名を呼ぶ。もし僕が同じことを同じ場面で聞かれたらどうなってしまうだろう、え~とか、あ~とか、余計な音を漏らしてしまったり、緊張のあまりパートナーの名前を間違えてしまったりしないだろうかなんて、そんなことばかりを思いながら、この後控えているスピーチの緊張も相まって、それはそれは気が気でない思いでいっぱいだった。

そんな風に人知れずばくばくと胸を高鳴らせていると神父は、新郎と新婦、それぞれに問う。互いのパートナーが幸福な時も、そうでない時も、健やかな時も、病める時も、死が二人を分かつまで、互いに協力し合い愛し合うことを誓いますか。新郎新婦ははっきりとした発声で誓い合う。フィクションでも、ノンフィクションでも、見たことがあるイニシエーションである。この一瞬のためにとても大変な準備をしてきたKのことを、僕は尊敬する思いだった。
そしてもう一つ気になったことは神父が言ったこと。死が二人を分かつまで。死は、二人を分かつものであると、神父が言ったということ。
これはもしかしたら宗教の話になるのかもしれない、聖書の言葉に誓って二人の結婚を認めるこの儀式はどういう宗教に則った儀式であるかわかっているけれども、その宗教によると死は二人を分かつものなのだなとその時に思う。使い古された表現かもしれないが、同じ墓に入って、あの世でも一緒に過ごし、片割れが先に旅立てば、後から追いかけていくからなと告げるのが夫婦というものなのかななんて、そんな気持ちがあったから、死は二人を分かつものなんだなとその時はっと気付く思いがあった。そんなことを思うと、急に二人の間柄は有限なものなのかと思えてしまって、それはとても悲しいような気持ちもあって、そういうことで、自分が信じる宗教というのは変わっていくのかななんて、日本人らしく特別信じているものがない僕だが、そんなことを思った。要するに僕はパートナーのことがとても好きなのだということである。死ぬ死なないなんて、まだ考えられないけれど、せめてこういう喜びの場面では、この幸せは永遠のものであると思える儀式があればいいななんて、そういう思いでKたちの幸せな儀式を見守った。

スピーチもつつがなく完了し、かつての先生との挨拶も済ませると、急に気持ちが落ち着いてくる。酒はうまいし料理もおいしい。同じ席になった、僕とは初対面のKの友人たちとも話が弾む。そしてやはりKと、そのお嫁さんの笑顔が印象深い。きっと僕以上に緊張していたことと思うが、それに勝る喜びもあったに違いない。その夜、宿泊先のホテルでYと二人酒を飲んでいる時、パートナーのいないYに面白そうだから楽天オーネットやってみてよ!とゲラゲラ笑いながら言った僕はすっかり昼間の思いを忘れたかのようであった。仲の良い友人に対してはそれでいいのだ。また東京に帰ったら、三人で馬鹿みたいな話がしたい。ちょっと真面目な話をするにはくすぐったい面子である。