初めに言うと、妻は流行り病に罹っていなかった。僕が大層安堵したことは言うまでもない。
土曜日の夜、妻が発熱を訴え始めた。この時世である。妻はマスクをして寝室にこもった。休日の夜、しかも発熱の症状、流行り病の可能性は捨て切れない中で、気軽に問い合わせられるのは自治体の窓口くらいしか思い浮かばない。僕は早速電話をかけてみる。録音された自動音声かそうでないのかわからない程に抑揚の浅い女性の声が電話口から流れる。私は本人ではない、夫である、妻が発熱している、三十八度を超えている、休日でこの時間、どのように対応するのが良いか教えてほしい。すると薬局で抗原検査キットなるものが市販されているので一度試してみることを勧められる。市販の解熱剤もなんとかという種類のものが良いと聞く。僕は電話の内容を妻に伝えて、早速家を出て薬局へ向かう。
駅前の調剤薬局が行きつけである。受付窓口で抗原検査キットなるものが欲しいと伝える。この薬局にかかるのは初めてではないかと聞かれる。私は本人では無く妻に症状があり、妻がキットを利用したい、妻はこちらに伺ったことがある、と伝えると、無事に妻の名義でキットを購入することが出来た。
キット購入の際には使い方の説明を薬剤師から受ける必要があると言う。受付担当とは別、奥の窓口に移動してタブレット端末を見ながら説明を聞く。私は本人ではなく夫で使うのは妻であると告げると、ではこのように奥様へお伝えくださいと説明される。自治体窓口で教わった解熱剤も購入した。
コンビニでゼリーなどの軽食を買って家に帰り、キットの使い方を妻に説明する。寝室でキットを試す妻と、居間でそわそわしながら時間を潰す僕。程なくして妻が寝室から出てきて陰性だと言う。ひとまず安心、ただし素人が市販の検査キットで試すもの、偽陰性の可能性も無いことはないと薬局で説明を受けている。世間はゴールデンウィークである、この後の過ごし方を知りたい。近所に大学病院がある。かかりつけと言う程ではないが、診察券は持っているし、何より休日窓口がある。僕は再び電話を取る。私は本人では無い、妻が発熱しており、市販のキットによると陰性である、出来れば念のためそちらにかかりたいがどうすれば良いか。すると今その病院ではニュースなどでよく聞く検査は実施しておらず、土曜日のこの時間、一旦様子を見て、明日まだ症状が残るようであれば、役所の隣に自治体の休日診療所がある、そちらで診てもらうという手もあると聞く。今日はここまでしか出来ないだろうと思い、明日また休日診療所なるところに電話をしてみるから、今日は休むように妻へ伝える。その日僕は念のために一人居間で眠った。
翌朝、妻の熱はやや下がり、症状も軽くなったと言う。休日診療所の受付時間は午前九時、時間を待って電話をかける。私は本人では無い、妻が昨日から発熱しており、検査キットでは陰性、現在症状は落ち着いている、出来ればそちらにかかりたいが。するとその診療所はあくまで休日に軽度な患者を診る場所であり、簡易的な診察しかできない、明日は連休狭間の平日であるし、一日様子を見て明日一般の診療所にかかるのはどうかと言われる。その旨妻に伝え、今日は休養させることにする。また明日に先の大学病院へ電話、受け付けてくれなければ自治体の窓口へ再度連絡して指示を仰ぐように決める。その日も僕は居間で横になった。我が家の居間にはソファが無い。しまい損ねているこたつに入って夜を過ごす。硬い床に背筋が強張る。
翌朝妻の熱はほぼ平熱になり、症状もわずかな頭痛のみとのこと。朝の受付開始時に大学病院の外来予約窓口に電話をかける。流れ作業のような簡素なやり取りが続く。診察券番号をお願いします、何々番です、ご本人様ではないんですか、私は夫です、本日はどうされました、妻が一昨日から発熱していまして。するとさすが大きな病院だけあって、地域の診療所で紹介状を書いてもらうのが一番早いんですがなどけんもほろろである。諦めて自治体の相談窓口にかけ直す。私は本人の夫なのですが妻が一昨日から発熱していましてかかりつけの病院もなく。すると「〇〇市 発熱」と検索すると発熱外来を受け付けている診療所の一覧が出てくるからそこへ連絡しろと言われる。ロールプレイングゲームをしているような気分になってくる。
言われた通りに検索して一覧を出し、なるべく家の近所の診療所をいくつか見繕う。一ヶ所目、妻が発熱していまして。申し訳ございません発熱外来の患者様が大変多く、初診はお断りしておりまして。二ヶ所目、発熱外来をお願いしたいのですが、私は本人の夫です。すみません本日ですと予約が。三ヶ所目、初診の発熱外来はお受けして頂けますか。はい、大丈夫です。あっ、そうですか、私は本人の夫でして、妻が一昨日から発熱を。ではなるべく早くお越しください、受付でお名前をおっしゃって頂ければ大丈夫です。
ようやく受け入れてくれる場所を見つけて妻に診療所の地図を送る。軽く出歩くくらいは問題ない程度に回復していた妻を見送って待っている間、僕はこの数日間でどれだけ妻のことを妻と呼び、自分のことを夫と呼んだであろうと思っていた。過度に丁寧な言葉を使うのが、すっかり大人と呼ばれる年齢になった今でもむず痒い。妻や夫という呼称は、僕の中でその過度に丁寧な言葉のひとつに数えられる。営業マンをやっていた経験からか、むず痒くとも過度に丁寧な言葉が勝手に出てくる。出来れば簡単な言葉の中で過ごしたい。その方が気持ちが楽だ。妻の両親に向かっては、召し上がってくださいだの、もうご覧になりましたかだの、よくご存知ですねだの、勝手に口がその形になる。加減がわからないが、過度だと思うこともあるし、実際言っていてむず痒い。
程なく妻より無事検査を受けられて陰性であったとの連絡が来た。無事であることの証明とはなんと難しいことか。このご時世、おちおち風邪も引いていられない。帰りは妻を迎えに行って、無事であることに安堵し、昼食を買って帰ってきた。僕も妻も隔離の解禁を喜び、平穏な休日の午後を過ごした。この時は、夫と妻よりも、ダンナとヨメくらいの呼び方がちょうど良いと思っていた。