在宅勤務のため人と会わず、孤独を埋めてくれるのは妻ばかりの生活だが、時たま声がかかって、街の外に出掛けることがある。家で仕事を終えてから、待ち合わせ場所に向かう金曜日の夜。会社から家に戻る人の流れに逆らって都会に出る。人と会わねば飲まぬので、近頃酒に弱くなった気がする。
元々あまり元気よく喋る性格ではないが、酒の席においては、三十も過ぎて酒には飲まれぬようになったが雰囲気に飲まれる。自分から酒に誘う連中というのはよく頭と口が回るので、つい釣られて僕も頑張ってしまう。しかしながら、人と対面して会話することというのは精神の健康にとても重要だと気付かされる。いつこの流行病は過ぎていってくれるのだろう。世間の健やかさを信じて街に出たいと強く思う。
0時台の電車に乗るのも久し振りで、普段より遅く床に就く。確実に年を重ねていると思うことがいくつか。朝起きる時間が早まる。深酒した訳でもないのに身体が重たい。寝起きに腰が痛い。腰は学生時代に運動をしていた時から多少悪い。調べると反り腰という状態に近いと思われる。腰のSの字を描く曲線が急で、反りすぎている。だから仰向けに寝ると、反った腰が平らに均されて痛む。仰向けでなければ眠れないので、痛みを堪えて眠るのが辛い。
居間にビーズクッションのソファがある。僕と妻に一つずつ。これは寄りかかった身体の形にぴたりと合うので、腰が痛くない。朝早く起きた休日、洗濯機が止まるのを待ちながら、よくビーズクッションに体を預けている。
休日の昼食は大抵出来合いのものを買ってくる。明日はあれにしようこれにしようと、前の晩に妻と話し合うのが楽しい。僕と違って妻は眠るのが上手いので、目覚まし時計の鳴らない朝はなかなか居間に顔を見せない。
大体10時過ぎごろに妻と連れ立って、散歩がてら街を歩いて、目当てのものを買いに行く。特別なものを買う訳ではない。弁当屋だってコンビニだって、休日の昼食選びの場所としては心躍る。コンビニで買う飯の量が減った。油物に躊躇するようになった。これも年齢の現在地を実感する事柄の一つ。
帰ってきてすぐに昼食。散歩でも身体を動かすと腹が減る。食べるものはなんだっていい、妻と囲う休日の昼の食卓が愛しい。精神の健やかさを蓄えていることを実感する機会に恵まれていることを有り難く思う。
昼食を摂ると途端に眠くなる。休日の午後というのは決まってやることがない。不要な外出を控えることが推奨される時代にあっては尚のことだ。僕はビーズクッションに横になる。腰の痛みも軽い。昨晩は痛みもあってよく眠れず、朝も自然と起きてしまう。そして食後というのはどうにも眠くなる。気付くとすぐに眠りに落ちている。
次に目が覚めると夕方。眠りから覚めようとする時というのはうんと身体が重たい。目を閉じても再び眠りの世界へ行ってしまうことはなさそうだが、身体は床にへばりついて剥がれない。この時間については、特別快いものでもない。ただ眠りに落ちる前の、まだ意識が残っている時から考え直してみると、この午睡は気分が良かったと思える。僕はまだ眠りから完全に覚醒しない頭で、眠りの快さとはいつ実感するものかと考える。寝ることが趣味だと言う人がいる。抗えぬ眠りに身を委ねることが心地よいのも理解できる。では果たして僕はいつどの瞬間、眠りを楽しんでいるのだろう。だって寝ている時、僕には意識が無いのだから。眠くなるという生理現象への抵抗をやめて、ふと気がつくと知らない時間にいる。僕はいつこの事象に対して、快いと感じたのか。実感できないものは無いのと同じ、だから自身の死を恐れる必要はない、という話を聞いたことがある。その点眠りもそれに似ているはずなのだが、確かに快いのだ。これはどうしたことか。
そう考えると、眠りは本当に快いのかという考えにも至る。食事が楽しいのは、舌に当たった食べ物を美味いと感じるからだ。眠りが楽しいのなら、眠っている自分自身が、今僕は眠っていて気持ちが良いな、と感じているはずだが、そんなはずはない。
僕が考えた眠りの楽しさは二つ。一つは、眠りには、それが許されない時間がある。就業中は眠ってはならない。その制限がなく、生理的な眠気に逆らう必要のない時間、これから意識を失って時間を消費してしまうことが許された状況、完全に意識を失う直前の刹那に感じるものが快さなのではないか。そして二つ、眠ると体力を回復する。眠る前よりも心身が健康的な状態になっている。だから快いと感じる。どうだろう、この二説。つまり眠ることそのものではなく、眠るという取り組みの周辺にある事柄、ないしは眠ったことによる結果が快いのではないか。僕はまだぼんやりとした頭と、開き切らない瞼で、そのようなことを考えた。居間で目覚めると妻がいない。しばらくすると寝室から、まさに今起きてきたような顔をした妻が出てくる。君も眠りを楽しんでいたのか。僕が腰を摩っていると、痛いのなら整体にでも病院にでも行けと言う。快い眠りのために、それも必要かも知れないが、僕はなんだか病院が苦手なのだ。