2023/07/20

妻が妊娠してから出産するまでの間に思っていたことの件

妻が妊娠したことを知った時の気持ちは非常に繊細で、それでいて爆発的でもあった。計画なしに、偶然授かったのではない。僕らは子を成すことを希望していた。そうなるべく行動してきた。だからそれが達成された時の気持ちと言えば当然ながらそれは歓喜の思いであったし、でも同じくして、まだ妊娠の極めて始まりの部分になんとか手が届いた状態であったから、この後今回は縁がなかったということになってもおかしくない、ここで僕がこの歓喜を、言葉や表情や身振り手振りで示してしまった後にそういうことになってしまったら、妻はひどく悲しむのではないか、自分を責めるのではないか、彼女を慰める僕の声が届かないのではないか、そう思うと、身体の末端から今にも溢れ出んとする歓喜をなんとか食い止めて、極めて冷静に、それでいてこの縁と妻に感謝していることを示しながら、これからのことを一緒に考えていこうと伝えることが最善のように思われた。僕はやっと寒さの去った春の朝にするような類いのささやかな笑顔をあえて作っておきながら、心の中には試合終了間際で逆転のゴールを決めたような爆発的な思いを閉じ込めていたのであった。そうやって、妻との妊娠期が始まった。街が寒さに包まれ始める頃のことである。


妊娠の本当に初期は色々なことが不安定で、少しのことでお互い不安になった。元々僕はかなり作りが繊細な方で、甚だしい心配性だったのに対し、妻はとてもおおらかでいてかつ賢く、来るべき問題には余裕で対策を持っているようなタイプだった。だからこれまで妻に助けられたことはたくさんあるし、僕はかなり妻に甘えてきたと思う。そんな妻が今回ばかりは弱った姿を僕に見せることもあった。僕は自分の臆病さを殺さねばならなかった。殺せずとも、それを見せないようにする努力が必要だった。今思うと、妊娠が判明してすぐくらいの頃が、お互い一番心身ともに繊細であったと思う。僕らに一生懸命心音を届けてくれる胎児がいじらしかった。
そして街は流行病に脅かされていた。僕と妻、どちらがそれに冒されても、きっと気持ちの上ではやり切れない。僕がそれに捕まってしまったら妻は僕を励ますだろうし、その逆も然り、しかし本人は相手に対して、そして小さな命に対して申し訳なさに苛まれることだろう。僕たちは様々なことと戦わなければならなかった。

妊婦がレモンをかじるだなんて話は半信半疑だったが、あながち嘘とも言えなかった。妊娠初期の妻はよく言うつわりの症状に悩まされた。幸いにして全く食べ物を受け付けられなくなったり、戻してしまったりすることさえなかったが、食べられるものは限られた。我が家ではミネラルウォーターを飲料水として買っていたが、水が苦いと言い出して、ある日レモネードで水を割るようになった。米は食べられなくなり、柔らかい食パンやうどんを食べるようになった。甘いものは食べられず、塩辛いものと酸っぱいものを欲しがった。僕は在宅勤務であったこともあり、妻の妊娠前から台所仕事は僕の役目だった。僕は毎晩のように酸味のある夕飯を作った。トマトで煮たり、酢を使ったりして、毎日似たようなものばかり作ったが、そういうものなら妻の口に入った。
今まで普通に食べられたものが食べられなくなってしまった妻は悲しげであった。そんな妻を見て、僕も悲しくなった。僕だけが今まで通りなことに腹が立った。僕は当事者の一人であるのに、当事者になれていない気がしてならなかった。当然ながら僕は、体温が下がらないことを祈りながらも願いが届かず、月の腹痛に耐える悲しみを直接味わうことができなかった。妻を前にすると、そういう諸々の違いのことが不公平に思えてたまらなくなる。僕も妻となるべく同じものを食べた。毎日酸味の強い夕飯を食べた。でもそんなことでは妻の苦労の半分も味わえないと思うと悔しかった。僕は無力だと思いながら過ごすのはつらかったが、妻ができない家事などを代わりに行うことには喜びと、また罪滅ぼしのような気持ちがあって、身体は活発に動いた。

かなり気が早いとは思いつつも、僕は妻の妊娠が分かった時から、もとい、妊娠を計画した時から子供の名前を考えていた。この歳になって恥ずかしいったらないが、僕は実家の家族に大きなコンプレックスを持っていて、僕はああいう親にはなるまいと、以前から強く思っていた。だから何か親の望みを強く込めたような名前はつけたくないなとか、それでいて、子供自身が親である僕たちの顔色を見ることなく自立できるような、そういう気持ちを後押しできるような名前をつけたいなとか、そういうことを考えていて、矛盾した思いに我ながら呆れつつも、僕は結構この仕事が好きだった。妻は自分で考えるのは苦手だから、僕が考えた候補から気に入ったものを選ぶと言う。まだ性別もわからない頃の話だ。ただこういうやりとりが、将来の希望、そして耐え忍ぶ今の寄る辺になるような気がして幸福だったと思う。僕は男女合わせて一体いくつの名前を考えたかわからない。

妊娠12週を超えたあたりで妻のつわりも多少軽くなってきて、久しぶりに米を食べることが出来た時には僕も感動を覚えた。当たり前に食事ができることは当たり前ではなかった。この時はまたひとつ関門を超えたような気がして素直に嬉しかった。食事は少しずつ元に戻していったが、妊婦には摂るべき栄養がたくさんあるので、それが何に多く含まれているのか調べて、今まであまり手を伸ばさなかった材料で夕飯を作るようになった。おかげで葉酸やら鉄分やらカルシウムやら、そういうものを摂取するための献立に僕の方がうるさくなって、食の細い妻に色々なものを食べさせた。妻はとても痩せ型で心配したが、少しずつお腹が大きくなっていくのがわかって、無事に安定期と呼ばれる週までやってきた時には嬉しさもひとしおだった。
この頃、妻の両親も我が家に訪ねてくるなどして、喜ぶ義両親の顔を見て、改めて僕は幸せな結婚をしたなと思い知らされた。自分の実家には、正月に帰らない適当な理由が思いつかなかったので、渋々ながら、実は、という連絡をした。

つわりが終わるか終わらないかの頃の妻はやはり賢く、計画的で、役所に行ってこれからすべきことをまとめてきて、保育園を探す活動にも精を出し始めた。正直妻に言われて必要性を自覚したこともたくさんある。支えたいと思っていながら情けない話だ。妻は僕よりもずっと建設的な意見を持っている。僕の願いといえば、正直に言えば妻の望むようにすることであるが、それではあまりに主体性に欠ける。僕たちは一緒になってこれからのことを考えるべき段階に入った。
意識して街を眺めてみると、保育園というのは至る所にあった。妻が役所でもらってきた地域の保育園マップを見ながら、スマホの地図アプリにチェックをつけて、二人で散歩がてら周りを見て回った。ここは近いとか遠いとか、ここは園庭があるとかないとか、遊びではないが、妻との明るい未来に向けたコミュニケーションとしてはとても楽しんだ。現実問題、これは難しい取り組みになるわけだが、少なくともこの時は将来のことを考えて行動するのが楽しかった。
妊娠五ヶ月も過ぎると、妻は時折、お腹がぽこぽこする、などと言うようになった。それがつまり胎動というやつなのか、それとも自分の内臓の動きなのか判別がまだつかない、と言っていたそばから、今度はにょろっとした、などと言い始め、これは確実に自分でない命の仕業であるということらしかった。目には見えぬが、確実に生まれる準備が整ってきているようだった。妻が安心している姿を見て、僕も安心することができた。嬉しさと安心の割合が、少しずつ心配の割合を上回ってくる。この時は二月も中旬、やっと寒さの山の頂上から降りてくるような季節に入ってきた頃で、そのことも僕らに安心を与えたのだった。

妻の妊娠は親孝行の側面もあり、その点では結婚式と同じところがあった。やはりというべきか、親というのは娘を可愛がるものであって、男子はそれに比べて野に放たれているように思う。僕の場合は自ら親を疎んじていたところもあったが。とにかく妻が幸せに過ごすことに対して、妻の親は労力を惜しまないし、その姿を見たがっている。僕は人前に出て何か目立った事をするのが苦手なので、本心を言えば結婚式なんてやりたくなかった。ただ妻の親は娘の着飾っている姿を見たがった。だから結婚式を行うということ自体を、僕は当然のことのように受け止める姿勢を見せた。それが親孝行だと思った。
妊娠は僕も望んだことだったが、これも妻の親は大変に喜び、色々な行事をやりたがった。妻が毎日のように胎動を感じるようになった頃、戌の日のお参りに行った。僕は戌の日なんて知らなかったし、その慣わしを知っても特に何かしようとは思わなかったが、妻の親は戌の日に参拝する娘の姿を見たがったから、そういう意味では親孝行だったと感じる。妻の体調が落ち着いたと思ったら色々なイベントがあって少々忙しい日々を過ごした。ただ妻と二人で何かに取り組むのは楽しくて、二人だけの楽しみは今しか味わえないと思うと、名残惜しくすらあった。

春になり寒さが和らぐのに合わせて、僕の心もいくらか柔軟さを取り戻した。毎日出社する妻が、仕事で疲れてはいるものの、家に帰ってきた安堵が伝わる声でただいまと言うのが一番僕を安心させてくれた。妻は仕事から帰る時に必ず連絡をくれた。だから妻の終業頃の時刻になるといつもそわそわした。もし連絡がなかったら、何かあったということかも知れない。などと思っているそばから連絡が入ったりする。僕は自分に呆れて笑った。

少し前から、妻は胎児のことをぽこ太と呼び始めた。腹の中でぽこぽこと動くからだそうだ。性別がわからぬ内は、もしかしたらぽこ美の可能性もあるなどと言って笑ったが、ある日定期検診へ行った妻がケーキ屋の箱を持って帰ってきた。箱を開けて、ショートケーキなら女、チョコレートケーキなら男だと言う。含んだ笑みを滲ませながら、緊張した僕を見る妻。この時僕はどちらかの味を望んだり、予想したり、どういった気持ちであったかうまく言い表せられない。ただただ僕は、健康であって、無事でいてくれれば良いという気持ちばかりであったが、楽しそうにしている妻の様子が嬉しくて、妊娠したばかりの頃、少しのことを大いに不安がっていたあの様子との対比になんだか感動を覚えていて、箱を閉じるテープを丁寧にはがしながら、僕はどういう気持ちでいるのが正解なのかまるでわからず、正直な気持ちよりも、白かったらこう言おう、黒かったらこう言おう、そうしたら妻は笑ってくれると思う、そんなことばかりが目まぐるしく頭を駆け巡り、息を飲んで箱を開けた。その日から胎児はぽこ美と呼ばれるようになった。

春のぽこ美はぽこぽこする以外の動きもたくさん身につけたようで、妻が言うにはにょろにょろするとか、ぐにゃぐにゃするとか、単打だけでなく、連続した動きをするようになっていった。僕も妻の腹を触ると、その動きを感じ取ることができた。まだ心配に思うことがなくなった訳ではない。妊婦なら当然、例えば疲れやすくなったり、腹が多少張るような感覚があったり、少々気分が悪くなったりといったような、細かな体調不良が見られて不思議ではないという。妻がそのような具合を訴える度に、僕は態度や表情には努めてそれを出さぬように気をつけたが、大いに妻を心配して、すぐに駆け寄り、様子を確かめる。何かを不安に思う時は、まるでそんな気持ちを感じていないような、鷹揚でどっしりと構えた人の存在がありがたいものだと思うが、その点で言うと僕はてんで役立たずであった。僕は毎日毎日、今日も妻自身は元気だったか、ぽこ美も元気だったかと、二人の体調を気遣っていた。妻が不意に居間から出てしばらく戻ってこない時、何かあったのではとそわそわした気持ちになってしまい、戻ってくると化粧を落としていただけだったりする、などということもよくあった。情けない。こういう時、完全に喜びの気持ちだけでいられる人というのは存在するのだろうか。僕の仕事はなるべく妻を心安らかにさせてあげることだとわかっていたから、少しでもそういう人に見えるように努めた。僕の性格をよく知っている妻には、内心複雑な気持ちでいることを見透かされていたことと思う。そんな僕を笑うようにぽこ美はうねうね動き回る。妻は妊娠後期に入った。

妻の腹はまさしく日に日に大きくなった。妻は元々痩せ型で、妊娠してもむやみやたらに食事を摂るようなこともなかったので、腹だけが目立って見えた。ある日妻がちょっと腹を触ってみろと言うので手を置いてみると、脈拍のように規則正しくぴくぴくと動くのがわかる。なんだろうと思っていると、これはしゃっくりだと言う。僕は胎児がしゃっくりをすることがあるということ自体は、ぱらぱらめくった情報誌で見たことがあったが、これがそれなのかと気付いた時の感動といったらなかった。まさしく、そこにいるのだ。
僕はそうやって、元気に生きている証を示してくれる時ばかり接してきたから、何の心配もないという気持ちでいるべきだと思ったが、二十四時間一緒にいる妻にとっては僕と同じ気持ちではないだろうということは何となく窺い知れた。定期的な検診は四週間おきだったのが、八か月を過ぎると二週間おきになった。検診の度に、元気ですね、問題ないですね、と言われて帰ってくる妻の安心した笑顔を僕は気に入っていた。それでも妻は早く次の検診が来ないかと、一刻も早く状況を確かめたくて焦った様子を見せたり、いざ検診が近付くと、ぽこ美は元気かな、と不安げに小さく呟いたりして、そんな時僕は一緒になって心休まらない気持ちになってしまう。そんなこと言わないでよと思ってしまう。でも今妻が求めているのはどんな言葉だろう、それを想像して、少しでも安らかな気持ちにさせてあげるのが僕の務めであるはずだと、自分を奮い立たせて、大丈夫だよ、だってこんなに動いてるよ、元気に決まってるよ、という言葉がしっかりと届いたかどうかはあまり自信がないが、僕にできるのはそれが精一杯だった。そして言った後から、これで正解だったのか、無責任なことを言ったのではないかと自己を省みたりした。僕は妻の笑顔が見たかった。もちろん暗い気持ちでいることばかりではない、一緒に楽しむ時間も大いにあった。ただ時々の心配の表情が、僕にも伝播して、ずっとずっとひと時も何事もない笑顔でいてほしいと、そういうわがままを思ったりしていた。

妻と僕は仕事に対する姿勢が違った。僕は仕事というのは生きる手段であって、これ自体が人生の目的にはなり得ない、なってはいけない、一定の距離を取るべきだと思っていた。妻は、自分の仕事は自分に向いているし、働いていない自分は想像ができないと言った。実際妻は職場でも評価されており、一回り以上年上の同僚を指導するようなこともしばしばあったそうだ。僕は妻の賢く要領が良いところを尊敬している。妻が仕事の困りごとを家で話すこともよくあったが、働くことは好きなのだなと感じていた。
そんな妻から一時的に仕事を奪うことになってしまったような気がした。いよいよ妻は産休に入る。別に僕が奪ったわけではない、ある意味僕が奪ったと言えないこともないわけだが、仕方のないこととして理解されることだとは思う。産後は大変なこともたくさんあるだろうが、それまでの休暇はゆっくりと過ごしてほしい。しばらくは僕が家を支えなければならない。僕は妻を守るため、また自分のことも守るため、適切なバランスを考慮して、業務に取り組む必要があった。

僕のはらはらとした思いをよそに、ぽこ美はおそろしく元気だった。妻の腹は波を打った。そこにいることが、触らなくてもわかる。よその子と比べたことがないのでわからないが、胎児というのはこんなに躍動するものなのだろうか。妻の腹に手を当てると、早く出せと言わんばかりの筋肉の動きを感じた。ぽこ美は腹の中にいる内から親孝行な子だった。僕は妻にも娘にも励まされて妻の妊娠期を過ごす、幸せな父親だったと思う。
一方妻はひとつひとつの動作をゆっくり行うようになった。特に歩くのはゆっくりで、隣を歩く僕の腕を掴み、道ゆく人に追い抜かれながら進んだ。少し歩くと息切れするようになり、一緒に行ったスーパーでは妻はベンチに座って待ち、その間に僕は買い物を済ませた。
在宅勤務は何事も心配しがちな僕の性格にはうってつけで、産休に入った妻の様子を常に感じながら日々を過ごすことが出来たことは幸運だった。そういう働き方ができるようになったことは、つまりは流行りの感染症の影響な訳だが、そう考えると良かったとは言い難いが、結果的に都合の良いこともあったということになる。この頃になると不思議なことに、僕と妻と妻の腹の中の子という三人暮らしの生活も悪くないと思っていたところもあった。そういえば、僕は腹の子に元気に育てよと思うことこそあれ、早く出てこいよと思うことはなかったかも知れない。出てくるなと言っている訳では当然無いが、今のこの三人での暮らしもすっかり慣れたところだった。そんな間抜けなことを思っている間にも、我が子との対面の時は確実に迫っていた。蒸し暑い日々が続き、冷房が必要になる季節になった。その時までの時間をカレンダーを見て確かめると、もう後わずかな時間しかないことに気付かされる。僕は妻にとって、妊娠期を穏やかに過ごすために役に立つ存在であっただろうか。ほんの少しでも、妻の安らかな寝顔を作った材料になれていただろうか。僕は考えることをやめようと考えた。あえてそう考えないと、考えを抑制することが出来ない。考えれば抑制できる訳ではない。ただ抑制のためには努力が必要であった。僕は努めて、自分が穏やかであるように、たくさんのことを考えて、良い夫であろう、良い父であろうとすることをやめようとしていた。あえてそう考えなくても、こういう時はこうするものだという反射の判断に自信がない訳ではない。あるがままに任せることが、今すべきことだと思った。僕は要らぬ考えで、事が起こる前から落ち着かなくなるところがあった。僕は妻のため、子のため、そして僕のためにも、考えることをやめようと考えた。妻の波打つ腹の内側で、ちょっと考えすぎじゃないか?と笑う子供の顔が見えた。君にはそうやって、考えすぎる僕を笑いとばせるような人になってほしいと思った。

妻の妊娠期の終盤は、梅雨も明けるか明けないかわからぬ内から夏の陽気になった。健康のために太陽の光を浴びて運動をしよう、もとい、健康のために太陽を避けて涼しい屋内で静かに過ごそうと叫ばれる季節だった。在宅勤務の僕は毎朝一人始業前に散歩へ出掛けていたが、産休に入った妻と一緒に出るようになり、しかしそれも暑さと共に控え気味になった。在宅勤務であることは常に妻のことを気にかけてあげられる点で良いと思ったばかりだったが、常に妻のことを気にしすぎて、弱い僕は冗談抜きで胃を痛めて病院にかかった。妊婦なら誰しもそうなるような身体の不調にも、僕は敏感に反応した。僕は夏の暑さを恨んだ。強い妻は僕を慰めた。腹の子も弱い僕をからかうようにどんどん大きくなった。僕はこの家の女たちに大いに助けられた。本来慰められるべき方に慰藉を求める僕は情けない夫、情けない父であったが、この家族の中にいられることを幸福に思った。

出産するに差し支えない適切な時期に生まれることを正期産というとのことだったが、つまりこれより早く産まれることを早産というのだそうだ。妻は無事に正期産の時期に入った。ここから先は、いつその時が来ても不思議ではないということで、僕はまた一段身構える姿勢を強くした。僕もそうだが僕らの両親たちもこちらの様子を知りたがって、連絡を密に取るようになったし、何やらたくさんの贈り物が届くようにもなった。両家にとって初孫になる。君はみんなに望まれて生まれてくるのだ。妻の腹を見ながらそんなことを思って、ひと時穏やかな気持ちになった。妻の腹は手を当てるというより、手を乗せると言った方が良いくらいせせり出た。明らかにそこにいて、それでいて成長していることがわかった。僕はこの状況から一旦離れるために仕事をした。つい妻のことを気にして、何か世話を焼く必要があるのではないかと思ってしまう。そんなことでは僕の方が疲れてしまう。いらぬ気遣いを忘れるために、仕事は丁度良かった。仕事は集中を要した。僕はとにかく仕事をした。考えすぎる僕には、一旦忘れるくらいの距離を取るのが良いに決まっていた。
予定日まで両手で数えられるくらいの時期、僕は妻と二人の日々の終わりを思って、少々感傷的な気分になった。僕は妻と二人きりの暮らしも愛していたから、今妻と二人で当たり前にしていることが、そうでなくなるのは少し悲しくもあった。ただ人生はそんなことが積み重なってきたはずで、思い起こせば三年や四年で学校を卒業してきたのだ。同じ会社に十年も勤めると、そういう気持ちを忘れてすっかり安定に慣れきってしまう。僕らは変化していくのだ。僕も、新しい生活を受け入れる時が来たのだと思った。まさにこれは卒業の悲しみだったのかも知れない。妻と二人、暑さを避けた夜の散歩の最中、しみじみとこの不思議な悲しみを分かち合った。きっとこれは今だけの特別な感情のはずだ。この時妻と分かち合ったのは悲しみだけではなくて、もうすぐ終わりを告げるこの妊娠期を、二人の力を合わせてなかなか楽しく過ごせたのではないか、そんな思いも含まれていた。

体重が2,500グラムを超えたと聞いた時、もう本当にいよいよだと思った。彼女はもう準備を整えたのだ。そして一方僕らの方はどうだ。僕はその時に備えて、何をしておくべきなのか、どんな気持ちを作っておくべきなのか、はっきりとわからないままで、ただ結局最後の最後まで妻の世話を焼かなければ気が済まないようだった。まるで家来も同然だ。妻もきっと、ちょっと落ち着いたらどうだと思っただろう。案ずるより産むが易しとはまさに今使う言葉だと思ったが、これは僕が自分自身に唱えるのではなくて、僕が妻にかけてあげる言葉であるはずだった。
妻は僕にたくさんの感謝の言葉をくれた。それを言いたいのは僕の方だ。君にはどうやっても代わってあげられない大変な仕事がある。僕のどんな努力にも勝る大切な仕事があるのだ。そんなことを思っている内に、それはごく静かに、おだやかにやってきて、僕の心に嵐を起こして、速やかに去った。僕はただ嵐の中で、傘を持ち続ける努力して待つばかりだった。僕は勝手に妻を頼もしい存在だと思っているだけで、実のところ妻もたくさんの心配があるに違いなかった。だから、きっと妻なら大丈夫だと信じるのは僕の身勝手な思いのようであり、しかしながらそう信じる他ないところもあり、僕は歯痒かった。そんな風にただそわそわとしている内に、事は済んでしまったのであった。

今からこんなに暑かったら、八月はどうなってしまうのだろうと思うような、猛烈な熱気の中で、彼女は初めて僕らと同じ場所で躍動した。僕と妻が、彼女をここへ招き入れた。ありがとう。勝手に呼び寄せてごめん。でも、うれしい。この世界に、ようこそ。