2025/08/26

おかあさんといっしょのイベントに行って脚を見た件

 なんの工夫もない言い方をすれば日々の暮らしに精一杯。朝早く起きて、子供の支度をして保育園まで自転車で送り、家に帰ってきてテレワーク、仕事の合間に洗濯物を畳んで夕食の準備をし、嫁が子供を連れて仕事から帰ってきたら風呂の世話をして夕食を出し、仕事に戻って遅くまで残業をして、風呂を済ませ、灯りの消えた寝室にこっそり入っていって、嫁と子供を起こさないようにそっと布団に入る。翌朝は早起きの子供にパパおきてと言われて目覚ましが鳴る前に起こされたりもする。加えてこの暑さはなんだ。天気予報を見て、体温より高い予想気温に驚きがもう無いのがおかしい。真夏のピークが去ったとフジファブリックが歌うのをそうだなと思って聴けるのはいつになるのか。

自分の時間はまるで無い日々の中で願うのは嫁が幸せであること。これは何も清らかな話だけでは無くて、僕はとても負の共感性が高いので、身近な人が悲しんでいると僕も悲しくなる。だから僕のために、最も身近な人である嫁さんには健やかでいてほしいのだ。そして子供がいい子でいてくれること。2歳になった娘は信じられないくらいおしゃべりでイタズラ好きでやんちゃで手がつけられない。やるなと言ったことを全てやる。言葉が通じるようになってきたのがせめてもの救いだ。あとやはり子どもはかわいい。「あしょぼ!あしょぼ!」と言われておもちゃのところまで手を引かれて言ったり、時には「パパだいすきー!」と言って抱きついてきたりすることもある。そんな媚びで日頃の悪行の数々がチャラになると思うなよなどと思いつつも、いつの間にか勝手に覚えた言葉で甘えてくるのはかわいいに決まってる。だからなんとか大変な日々でも救われている。
そんな日々の暮らし。僕の趣味ってなんだったか?と思うことも増えたが、まあ生きていくってそういうものなのかも知れないなと感じながら過ごしていると、嫁がおかあさんといっしょのイベントに行きたいと言ってきた。さいたまスーパーアリーナが会場らしい。嫁は割とそういう大きな会場での催しに慣れているが、僕は全くそういう類のものに縁がない。好きなバンドのライブに行ってきましたみたいな話を、どこか遠くの国の話みたいに聞いていることがある。僕は人の多いところが苦手だし、基本的に出不精で、休みがあったら家にいるタイプなので、絶対に自分からはそういう場所に行きたいと言う事はない。しかし基本的に嫁がやりたいと言ったことには反対したことがない僕。行きたいと言われて、どうぞ行きましょうと二つ返事。別に行きたくないわけじゃない。平穏と言うか、波風のない時間が特に好ましいというだけだ。
日曜日。朝は6時に起きた。自宅からさいたま新都心までは大体1時間半くらいかかった。子供は得意のやんちゃを繰り出し、電車の中でも大人しくしていない。ベビーカーから降りたくて仕方がない。嫁があの手この手で鞄からさまざまな道具を出して子供の気を逸らしていく。ただただすごいなと思うばかり。僕が子育てに関して嫁に優っているのは筋肉の量だけだ。ベビーカーでじっとしているのも限界になった頃、抱っこして車窓の景色を眺めさせるのは僕がやった。そして何だこの暑さは。体温の高い子供を抱っこしてこの暑さ。連日の残業の疲れもあり、何だか何かを思うのも疲れてくる。会場付近にはたくさんの人がいて、言うことを聞かない子どもを叱る親がいて、もう帰るよ!コンサート観れなくてもいいの!?などと親から言われている子供がいて、なんだか疲れる空間だなと思った。
さてこの手のイベントごとに初めて参加したので、会場の雰囲気とか、座席の作りとか、主役がどこに現れてどこで歌い踊るのかとか、まるでわからない。入場してみるとつまり、底の深い皿状の会場の傾斜部分に我々が座り、底の中央付近に台座があり、台座の上やその周囲をお兄さんやお姉さんがぐるぐる回ったりするという訳で、僕の席は割と底に近い方だったと思うが、主役との距離はどれくらいあったのだろうか。肉眼では表情もわからないくらいだ。台座の真上にモニターが吊るされていて、結局そこを見てしまう。どんな風に始まるのだろうと思っていたら、音楽と共にお兄さんお姉さんキャラクター達が四方八方から突然飛び出してきたり、ちょうど宅配便のトラックみたいな大きさと高さのステージの上に乗ってキャスターで転がされて登場したりして急に始まった。子供がいるので、ほら来たよ!お兄さんお姉さん来たよ!などと話しかけながらステージへの注目を促したりして、ステージを観ればいいのか子供の様子を気にすれば良いのかよくわからなくなったりしていた。いつもテレビで見ている人たちが近くにいるというのは何か特別な感動があるかと思ったが、特に近くはない。
イベントも中盤から終盤に差し掛かると、主役達のパフォーマンスも白熱してきて、皿の傾斜に座る我々の元へやってきてくれたりする。僕ら一家の座る席の近くにはお姉さんが2人ほどやってきてくれた。これは本当に近い。手を伸ばせば触れられるくらい近い。そこでやっと、笑顔のお姉さんたちも大粒の汗をかいて舞い踊っているのだなということに気付く。膝に乗せた娘が、近付いてきたお姉さんに興奮している時、僕はどういうわけかお姉さんの脚を見ていた。ああ、若い女の子の脚だ。お姉さんたちはアイドル風のスカートだったりショートパンツだったりして結構脚が露出している。うわ、脚じゃん、近いな。正直な感想はそれだ。それでいいのか?普段お姉さん呼ばわりしている人を急に若い女の子扱いしているのも変な感じだ。色んな歌や踊りやお芝居があって結局それかい、というのもなんだか悲しかったが、疲れている時の感想がそれというのはなんだか納得感があった。
1時間半ほどのステージを観て、退場していく大勢の観客の波に乗って外の世界に出ると、さんさんと照り付ける太陽と再会、会場の中はどれくらい電気代がかかるんだろうと思うくらい涼しかった。また1時間半ほどかけて電車で帰る。帰りは子供も寝ていたし、僕も寝た。2時過ぎごろ帰ってきて遅い昼食を摂った。もうその日はすぐに風呂に入って、買ってきた弁当で夕飯を済ませて、子供と一緒にすぐに寝た。疲れたし、明日も仕事だ。会場では撮影は禁止、思い出は心のシャッターに!などと繰り返しアナウンスされていたが、お姉さんたちの脚がどうだったかはよく思い出せない。

2023/12/03

僕は子育てを努力する件

 子供が生まれたのが7月、光陰矢の如しでじきに5か月になる。子供が生まれた日、僕は自宅にいて、なぜならば病院から、お前は連絡のつく場所で待機しているようにと言われたからである。つまり出産に立ち会ったりとか、直接妻を励まして送り出したりとか、そういうことは出来ていない。僕はただ自宅ではらはらと過ごすことしか出来なかった。思えば僕の子育てに対する無力さはこの辺りから始まっているのかも知れない。

妻と子供が退院する時には、妻の両親が車で迎えにきてくれた。僕も一緒に乗り込み、そのまま妻の実家へ向かった。妻は1か月の間里帰りすることになっていた。僕は妻と子供と一緒に少しの間妻の実家で過ごして、週末の終わりに一人自宅へ戻った。仕事をしなければいけない。フルテレワーカーなので妻の実家から仕事が出来ないわけではないが、十分仕事に集中できる場所があるかと言えばそういうわけでもない。僕が夜遅くまで残業していたら妻の両親は心配するだろうし、僕も妻の両親に心配をかけているだろうなと思って落ち着かなくなるだろう。幸いなことに少々時間はかかるが、通えない距離ではなかったので、僕は金曜日の仕事終わりに帰宅ラッシュの電車へ乗り込み、週末だけ妻の実家へ通う日々がしばらく続いた。わざわざ土曜日を待たず金曜日に出かけて行ったのは、少しでも長く妻の助けになりたいから、言い換えれば、子供のために直接的に何もしてやれないこと、それによって妻に負担が集中していることに対する負い目が耐え難かったからである。

新たに親になった人の全員が通る道だと思うが、赤子の手などというのは捻るつもりがなくとも捻ってしまいそうになるくらい頼りなく、世話はどうしてもおっかなびっくりになってしまう。週末の僕は少しでも妻の代わりに働かねばと思い、なるべく、例えばおむつを交換しようとするが、当然ながら毎日休みなく働いている妻ほど上手く出来ないし、かえってやり直しの手間をかけさせてしまうこともある。妻はそんな僕を責めないでいてくれるが、僕はやるせない気持ちで長い帰路につくこともあった。僕が妻よりも出来るのは、重いものを持つとか、高いところのものを取るとか、身体を痛めて子供を産んだ妻よりたくさん動くとか、そんなことばかりだった。やがて多少の慣れが生まれたが、それまで時間がかかった。

1か月経つ頃に、妻が子供を連れて戻ってきた。嬉しかった。やっと妻と子供がいる僕の人生が始まったような気がした。それに今までよりもっと妻の助けになるための機会を獲得したと思った。相変わらず妻は僕よりも上手く子供をあやすし、子供の方も妻にあやされることに慣れている雰囲気があって、遅れを取り戻さなければならないような気持ちになったが、毎日出社をする人よりはずっと長く妻と子供と一緒にいられるはずだ。その時の僕には希望があった。

そして近頃の生活はどうだ。僕は仕事があるために、一人寝室で眠ることになった。妻は子供と別室で夜を明かす。子供は夜に泣くこともある。僕は申し訳なさにまみれて眠ることもあったが、この家の経済活動を止めるわけにはいかない。ただ子供、もというちの娘は割に早い内から夜通し眠るようになったので、寝不足が続く妻にも、そんな妻に対する負い目によって弱っていた僕にも、なんて優しい子だろうと思った。
僕は毎日同じ時間に起きて、洗濯や買い物、食事の支度、ゴミ出しなどの家事をやってから仕事を始める。それくらいやらねば本当に申し訳が立たない。その後は寝室が仕事部屋を兼ねているので寝室に戻る。日中妻と娘の顔が見られるのはせいぜい昼休憩とか、そういうわずかな時間だけで、たくさんの時間娘の相手に時間を割ける訳ではない。
ただ夕方には少し仕事を休憩して、僕が娘を風呂に入れる。僕が娘の身体を洗い、その後妻が娘の身体を拭いて着替えさせる。入浴は二人の連携が必要だった。
僕はその後仕事に戻る。在宅勤務の功罪、以前は場所の移動が必要な仕事がある時には、移動の時間を勘定に入れてスケジュールを組んでいた訳だが、今はバーチャルな会議室からバーチャルな会議室へ、数回のクリックで移動が完了する。その結果時間を有効に活用できるようになり、またあるいは社内会議の直後に取引先との商談に出て、それが終わるや否や別の社内会議に出るようなことが可能になってしまった。忙しくなった。
そういうことをしていると、娘は寝る時間になっているし、僕も早く寝て明日に備える時間になっている。一日が恐ろしく短いと感じる。夏から秋になり、また冬に差し掛かり、日が差す時間が短くなったこともそう感じさせる。
そんな暮らしを続けていると、当然ながら娘は妻の腕の中で安らかな表情を見せるようになる。娘は早くも人見知りを覚えたようで、僕の顔は覚えてくれたようだけれども、僕の抱っこではなかなか泣き止んでくれないことばかりだ。妻に代わるとすぐに寝息を立て始める。その様子を見るのはなんだか切なかった。世間の父親は、みな一様にこんな思いを抱いているのだろうか。子供の世話は女の仕事だろうなどという封建的な考え方の人間だったら、そんなことも思わないのかも知れないが、僕はそうはなれない。妻は優しく、僕のことも認めてくれるばかりか、感謝の言葉もくれるが、僕にはそれはもったいないような気もする。ただ妻と娘と一緒に暮らす日々は幸福で、僕はその幸福のために努力する他ないのであった。

娘はまだ言葉を解さないし、彼女の気持ちをこちらがつぶさに汲み取ることも出来ない。それが出来るようになった時、僕は彼女にとってどんな存在になるのだろう。赤ちゃんが赤ちゃんでいる時間は短いと聞く。今は無力さを感じていても、努力を重ねた結果としてそれが現実なのであって、貴重な時間なのだと思った方が良いのだろうなと思う。あるいは、娘の笑顔が本当に可愛い、ただそれだけでも実はいいのかも知れない。慌ただしく日々は過ぎていく。

2023/07/20

妻が妊娠してから出産するまでの間に思っていたことの件

妻が妊娠したことを知った時の気持ちは非常に繊細で、それでいて爆発的でもあった。計画なしに、偶然授かったのではない。僕らは子を成すことを希望していた。そうなるべく行動してきた。だからそれが達成された時の気持ちと言えば当然ながらそれは歓喜の思いであったし、でも同じくして、まだ妊娠の極めて始まりの部分になんとか手が届いた状態であったから、この後今回は縁がなかったということになってもおかしくない、ここで僕がこの歓喜を、言葉や表情や身振り手振りで示してしまった後にそういうことになってしまったら、妻はひどく悲しむのではないか、自分を責めるのではないか、彼女を慰める僕の声が届かないのではないか、そう思うと、身体の末端から今にも溢れ出んとする歓喜をなんとか食い止めて、極めて冷静に、それでいてこの縁と妻に感謝していることを示しながら、これからのことを一緒に考えていこうと伝えることが最善のように思われた。僕はやっと寒さの去った春の朝にするような類いのささやかな笑顔をあえて作っておきながら、心の中には試合終了間際で逆転のゴールを決めたような爆発的な思いを閉じ込めていたのであった。そうやって、妻との妊娠期が始まった。街が寒さに包まれ始める頃のことである。


妊娠の本当に初期は色々なことが不安定で、少しのことでお互い不安になった。元々僕はかなり作りが繊細な方で、甚だしい心配性だったのに対し、妻はとてもおおらかでいてかつ賢く、来るべき問題には余裕で対策を持っているようなタイプだった。だからこれまで妻に助けられたことはたくさんあるし、僕はかなり妻に甘えてきたと思う。そんな妻が今回ばかりは弱った姿を僕に見せることもあった。僕は自分の臆病さを殺さねばならなかった。殺せずとも、それを見せないようにする努力が必要だった。今思うと、妊娠が判明してすぐくらいの頃が、お互い一番心身ともに繊細であったと思う。僕らに一生懸命心音を届けてくれる胎児がいじらしかった。
そして街は流行病に脅かされていた。僕と妻、どちらがそれに冒されても、きっと気持ちの上ではやり切れない。僕がそれに捕まってしまったら妻は僕を励ますだろうし、その逆も然り、しかし本人は相手に対して、そして小さな命に対して申し訳なさに苛まれることだろう。僕たちは様々なことと戦わなければならなかった。

妊婦がレモンをかじるだなんて話は半信半疑だったが、あながち嘘とも言えなかった。妊娠初期の妻はよく言うつわりの症状に悩まされた。幸いにして全く食べ物を受け付けられなくなったり、戻してしまったりすることさえなかったが、食べられるものは限られた。我が家ではミネラルウォーターを飲料水として買っていたが、水が苦いと言い出して、ある日レモネードで水を割るようになった。米は食べられなくなり、柔らかい食パンやうどんを食べるようになった。甘いものは食べられず、塩辛いものと酸っぱいものを欲しがった。僕は在宅勤務であったこともあり、妻の妊娠前から台所仕事は僕の役目だった。僕は毎晩のように酸味のある夕飯を作った。トマトで煮たり、酢を使ったりして、毎日似たようなものばかり作ったが、そういうものなら妻の口に入った。
今まで普通に食べられたものが食べられなくなってしまった妻は悲しげであった。そんな妻を見て、僕も悲しくなった。僕だけが今まで通りなことに腹が立った。僕は当事者の一人であるのに、当事者になれていない気がしてならなかった。当然ながら僕は、体温が下がらないことを祈りながらも願いが届かず、月の腹痛に耐える悲しみを直接味わうことができなかった。妻を前にすると、そういう諸々の違いのことが不公平に思えてたまらなくなる。僕も妻となるべく同じものを食べた。毎日酸味の強い夕飯を食べた。でもそんなことでは妻の苦労の半分も味わえないと思うと悔しかった。僕は無力だと思いながら過ごすのはつらかったが、妻ができない家事などを代わりに行うことには喜びと、また罪滅ぼしのような気持ちがあって、身体は活発に動いた。

かなり気が早いとは思いつつも、僕は妻の妊娠が分かった時から、もとい、妊娠を計画した時から子供の名前を考えていた。この歳になって恥ずかしいったらないが、僕は実家の家族に大きなコンプレックスを持っていて、僕はああいう親にはなるまいと、以前から強く思っていた。だから何か親の望みを強く込めたような名前はつけたくないなとか、それでいて、子供自身が親である僕たちの顔色を見ることなく自立できるような、そういう気持ちを後押しできるような名前をつけたいなとか、そういうことを考えていて、矛盾した思いに我ながら呆れつつも、僕は結構この仕事が好きだった。妻は自分で考えるのは苦手だから、僕が考えた候補から気に入ったものを選ぶと言う。まだ性別もわからない頃の話だ。ただこういうやりとりが、将来の希望、そして耐え忍ぶ今の寄る辺になるような気がして幸福だったと思う。僕は男女合わせて一体いくつの名前を考えたかわからない。

妊娠12週を超えたあたりで妻のつわりも多少軽くなってきて、久しぶりに米を食べることが出来た時には僕も感動を覚えた。当たり前に食事ができることは当たり前ではなかった。この時はまたひとつ関門を超えたような気がして素直に嬉しかった。食事は少しずつ元に戻していったが、妊婦には摂るべき栄養がたくさんあるので、それが何に多く含まれているのか調べて、今まであまり手を伸ばさなかった材料で夕飯を作るようになった。おかげで葉酸やら鉄分やらカルシウムやら、そういうものを摂取するための献立に僕の方がうるさくなって、食の細い妻に色々なものを食べさせた。妻はとても痩せ型で心配したが、少しずつお腹が大きくなっていくのがわかって、無事に安定期と呼ばれる週までやってきた時には嬉しさもひとしおだった。
この頃、妻の両親も我が家に訪ねてくるなどして、喜ぶ義両親の顔を見て、改めて僕は幸せな結婚をしたなと思い知らされた。自分の実家には、正月に帰らない適当な理由が思いつかなかったので、渋々ながら、実は、という連絡をした。

つわりが終わるか終わらないかの頃の妻はやはり賢く、計画的で、役所に行ってこれからすべきことをまとめてきて、保育園を探す活動にも精を出し始めた。正直妻に言われて必要性を自覚したこともたくさんある。支えたいと思っていながら情けない話だ。妻は僕よりもずっと建設的な意見を持っている。僕の願いといえば、正直に言えば妻の望むようにすることであるが、それではあまりに主体性に欠ける。僕たちは一緒になってこれからのことを考えるべき段階に入った。
意識して街を眺めてみると、保育園というのは至る所にあった。妻が役所でもらってきた地域の保育園マップを見ながら、スマホの地図アプリにチェックをつけて、二人で散歩がてら周りを見て回った。ここは近いとか遠いとか、ここは園庭があるとかないとか、遊びではないが、妻との明るい未来に向けたコミュニケーションとしてはとても楽しんだ。現実問題、これは難しい取り組みになるわけだが、少なくともこの時は将来のことを考えて行動するのが楽しかった。
妊娠五ヶ月も過ぎると、妻は時折、お腹がぽこぽこする、などと言うようになった。それがつまり胎動というやつなのか、それとも自分の内臓の動きなのか判別がまだつかない、と言っていたそばから、今度はにょろっとした、などと言い始め、これは確実に自分でない命の仕業であるということらしかった。目には見えぬが、確実に生まれる準備が整ってきているようだった。妻が安心している姿を見て、僕も安心することができた。嬉しさと安心の割合が、少しずつ心配の割合を上回ってくる。この時は二月も中旬、やっと寒さの山の頂上から降りてくるような季節に入ってきた頃で、そのことも僕らに安心を与えたのだった。

妻の妊娠は親孝行の側面もあり、その点では結婚式と同じところがあった。やはりというべきか、親というのは娘を可愛がるものであって、男子はそれに比べて野に放たれているように思う。僕の場合は自ら親を疎んじていたところもあったが。とにかく妻が幸せに過ごすことに対して、妻の親は労力を惜しまないし、その姿を見たがっている。僕は人前に出て何か目立った事をするのが苦手なので、本心を言えば結婚式なんてやりたくなかった。ただ妻の親は娘の着飾っている姿を見たがった。だから結婚式を行うということ自体を、僕は当然のことのように受け止める姿勢を見せた。それが親孝行だと思った。
妊娠は僕も望んだことだったが、これも妻の親は大変に喜び、色々な行事をやりたがった。妻が毎日のように胎動を感じるようになった頃、戌の日のお参りに行った。僕は戌の日なんて知らなかったし、その慣わしを知っても特に何かしようとは思わなかったが、妻の親は戌の日に参拝する娘の姿を見たがったから、そういう意味では親孝行だったと感じる。妻の体調が落ち着いたと思ったら色々なイベントがあって少々忙しい日々を過ごした。ただ妻と二人で何かに取り組むのは楽しくて、二人だけの楽しみは今しか味わえないと思うと、名残惜しくすらあった。

春になり寒さが和らぐのに合わせて、僕の心もいくらか柔軟さを取り戻した。毎日出社する妻が、仕事で疲れてはいるものの、家に帰ってきた安堵が伝わる声でただいまと言うのが一番僕を安心させてくれた。妻は仕事から帰る時に必ず連絡をくれた。だから妻の終業頃の時刻になるといつもそわそわした。もし連絡がなかったら、何かあったということかも知れない。などと思っているそばから連絡が入ったりする。僕は自分に呆れて笑った。

少し前から、妻は胎児のことをぽこ太と呼び始めた。腹の中でぽこぽこと動くからだそうだ。性別がわからぬ内は、もしかしたらぽこ美の可能性もあるなどと言って笑ったが、ある日定期検診へ行った妻がケーキ屋の箱を持って帰ってきた。箱を開けて、ショートケーキなら女、チョコレートケーキなら男だと言う。含んだ笑みを滲ませながら、緊張した僕を見る妻。この時僕はどちらかの味を望んだり、予想したり、どういった気持ちであったかうまく言い表せられない。ただただ僕は、健康であって、無事でいてくれれば良いという気持ちばかりであったが、楽しそうにしている妻の様子が嬉しくて、妊娠したばかりの頃、少しのことを大いに不安がっていたあの様子との対比になんだか感動を覚えていて、箱を閉じるテープを丁寧にはがしながら、僕はどういう気持ちでいるのが正解なのかまるでわからず、正直な気持ちよりも、白かったらこう言おう、黒かったらこう言おう、そうしたら妻は笑ってくれると思う、そんなことばかりが目まぐるしく頭を駆け巡り、息を飲んで箱を開けた。その日から胎児はぽこ美と呼ばれるようになった。

春のぽこ美はぽこぽこする以外の動きもたくさん身につけたようで、妻が言うにはにょろにょろするとか、ぐにゃぐにゃするとか、単打だけでなく、連続した動きをするようになっていった。僕も妻の腹を触ると、その動きを感じ取ることができた。まだ心配に思うことがなくなった訳ではない。妊婦なら当然、例えば疲れやすくなったり、腹が多少張るような感覚があったり、少々気分が悪くなったりといったような、細かな体調不良が見られて不思議ではないという。妻がそのような具合を訴える度に、僕は態度や表情には努めてそれを出さぬように気をつけたが、大いに妻を心配して、すぐに駆け寄り、様子を確かめる。何かを不安に思う時は、まるでそんな気持ちを感じていないような、鷹揚でどっしりと構えた人の存在がありがたいものだと思うが、その点で言うと僕はてんで役立たずであった。僕は毎日毎日、今日も妻自身は元気だったか、ぽこ美も元気だったかと、二人の体調を気遣っていた。妻が不意に居間から出てしばらく戻ってこない時、何かあったのではとそわそわした気持ちになってしまい、戻ってくると化粧を落としていただけだったりする、などということもよくあった。情けない。こういう時、完全に喜びの気持ちだけでいられる人というのは存在するのだろうか。僕の仕事はなるべく妻を心安らかにさせてあげることだとわかっていたから、少しでもそういう人に見えるように努めた。僕の性格をよく知っている妻には、内心複雑な気持ちでいることを見透かされていたことと思う。そんな僕を笑うようにぽこ美はうねうね動き回る。妻は妊娠後期に入った。

妻の腹はまさしく日に日に大きくなった。妻は元々痩せ型で、妊娠してもむやみやたらに食事を摂るようなこともなかったので、腹だけが目立って見えた。ある日妻がちょっと腹を触ってみろと言うので手を置いてみると、脈拍のように規則正しくぴくぴくと動くのがわかる。なんだろうと思っていると、これはしゃっくりだと言う。僕は胎児がしゃっくりをすることがあるということ自体は、ぱらぱらめくった情報誌で見たことがあったが、これがそれなのかと気付いた時の感動といったらなかった。まさしく、そこにいるのだ。
僕はそうやって、元気に生きている証を示してくれる時ばかり接してきたから、何の心配もないという気持ちでいるべきだと思ったが、二十四時間一緒にいる妻にとっては僕と同じ気持ちではないだろうということは何となく窺い知れた。定期的な検診は四週間おきだったのが、八か月を過ぎると二週間おきになった。検診の度に、元気ですね、問題ないですね、と言われて帰ってくる妻の安心した笑顔を僕は気に入っていた。それでも妻は早く次の検診が来ないかと、一刻も早く状況を確かめたくて焦った様子を見せたり、いざ検診が近付くと、ぽこ美は元気かな、と不安げに小さく呟いたりして、そんな時僕は一緒になって心休まらない気持ちになってしまう。そんなこと言わないでよと思ってしまう。でも今妻が求めているのはどんな言葉だろう、それを想像して、少しでも安らかな気持ちにさせてあげるのが僕の務めであるはずだと、自分を奮い立たせて、大丈夫だよ、だってこんなに動いてるよ、元気に決まってるよ、という言葉がしっかりと届いたかどうかはあまり自信がないが、僕にできるのはそれが精一杯だった。そして言った後から、これで正解だったのか、無責任なことを言ったのではないかと自己を省みたりした。僕は妻の笑顔が見たかった。もちろん暗い気持ちでいることばかりではない、一緒に楽しむ時間も大いにあった。ただ時々の心配の表情が、僕にも伝播して、ずっとずっとひと時も何事もない笑顔でいてほしいと、そういうわがままを思ったりしていた。

妻と僕は仕事に対する姿勢が違った。僕は仕事というのは生きる手段であって、これ自体が人生の目的にはなり得ない、なってはいけない、一定の距離を取るべきだと思っていた。妻は、自分の仕事は自分に向いているし、働いていない自分は想像ができないと言った。実際妻は職場でも評価されており、一回り以上年上の同僚を指導するようなこともしばしばあったそうだ。僕は妻の賢く要領が良いところを尊敬している。妻が仕事の困りごとを家で話すこともよくあったが、働くことは好きなのだなと感じていた。
そんな妻から一時的に仕事を奪うことになってしまったような気がした。いよいよ妻は産休に入る。別に僕が奪ったわけではない、ある意味僕が奪ったと言えないこともないわけだが、仕方のないこととして理解されることだとは思う。産後は大変なこともたくさんあるだろうが、それまでの休暇はゆっくりと過ごしてほしい。しばらくは僕が家を支えなければならない。僕は妻を守るため、また自分のことも守るため、適切なバランスを考慮して、業務に取り組む必要があった。

僕のはらはらとした思いをよそに、ぽこ美はおそろしく元気だった。妻の腹は波を打った。そこにいることが、触らなくてもわかる。よその子と比べたことがないのでわからないが、胎児というのはこんなに躍動するものなのだろうか。妻の腹に手を当てると、早く出せと言わんばかりの筋肉の動きを感じた。ぽこ美は腹の中にいる内から親孝行な子だった。僕は妻にも娘にも励まされて妻の妊娠期を過ごす、幸せな父親だったと思う。
一方妻はひとつひとつの動作をゆっくり行うようになった。特に歩くのはゆっくりで、隣を歩く僕の腕を掴み、道ゆく人に追い抜かれながら進んだ。少し歩くと息切れするようになり、一緒に行ったスーパーでは妻はベンチに座って待ち、その間に僕は買い物を済ませた。
在宅勤務は何事も心配しがちな僕の性格にはうってつけで、産休に入った妻の様子を常に感じながら日々を過ごすことが出来たことは幸運だった。そういう働き方ができるようになったことは、つまりは流行りの感染症の影響な訳だが、そう考えると良かったとは言い難いが、結果的に都合の良いこともあったということになる。この頃になると不思議なことに、僕と妻と妻の腹の中の子という三人暮らしの生活も悪くないと思っていたところもあった。そういえば、僕は腹の子に元気に育てよと思うことこそあれ、早く出てこいよと思うことはなかったかも知れない。出てくるなと言っている訳では当然無いが、今のこの三人での暮らしもすっかり慣れたところだった。そんな間抜けなことを思っている間にも、我が子との対面の時は確実に迫っていた。蒸し暑い日々が続き、冷房が必要になる季節になった。その時までの時間をカレンダーを見て確かめると、もう後わずかな時間しかないことに気付かされる。僕は妻にとって、妊娠期を穏やかに過ごすために役に立つ存在であっただろうか。ほんの少しでも、妻の安らかな寝顔を作った材料になれていただろうか。僕は考えることをやめようと考えた。あえてそう考えないと、考えを抑制することが出来ない。考えれば抑制できる訳ではない。ただ抑制のためには努力が必要であった。僕は努めて、自分が穏やかであるように、たくさんのことを考えて、良い夫であろう、良い父であろうとすることをやめようとしていた。あえてそう考えなくても、こういう時はこうするものだという反射の判断に自信がない訳ではない。あるがままに任せることが、今すべきことだと思った。僕は要らぬ考えで、事が起こる前から落ち着かなくなるところがあった。僕は妻のため、子のため、そして僕のためにも、考えることをやめようと考えた。妻の波打つ腹の内側で、ちょっと考えすぎじゃないか?と笑う子供の顔が見えた。君にはそうやって、考えすぎる僕を笑いとばせるような人になってほしいと思った。

妻の妊娠期の終盤は、梅雨も明けるか明けないかわからぬ内から夏の陽気になった。健康のために太陽の光を浴びて運動をしよう、もとい、健康のために太陽を避けて涼しい屋内で静かに過ごそうと叫ばれる季節だった。在宅勤務の僕は毎朝一人始業前に散歩へ出掛けていたが、産休に入った妻と一緒に出るようになり、しかしそれも暑さと共に控え気味になった。在宅勤務であることは常に妻のことを気にかけてあげられる点で良いと思ったばかりだったが、常に妻のことを気にしすぎて、弱い僕は冗談抜きで胃を痛めて病院にかかった。妊婦なら誰しもそうなるような身体の不調にも、僕は敏感に反応した。僕は夏の暑さを恨んだ。強い妻は僕を慰めた。腹の子も弱い僕をからかうようにどんどん大きくなった。僕はこの家の女たちに大いに助けられた。本来慰められるべき方に慰藉を求める僕は情けない夫、情けない父であったが、この家族の中にいられることを幸福に思った。

出産するに差し支えない適切な時期に生まれることを正期産というとのことだったが、つまりこれより早く産まれることを早産というのだそうだ。妻は無事に正期産の時期に入った。ここから先は、いつその時が来ても不思議ではないということで、僕はまた一段身構える姿勢を強くした。僕もそうだが僕らの両親たちもこちらの様子を知りたがって、連絡を密に取るようになったし、何やらたくさんの贈り物が届くようにもなった。両家にとって初孫になる。君はみんなに望まれて生まれてくるのだ。妻の腹を見ながらそんなことを思って、ひと時穏やかな気持ちになった。妻の腹は手を当てるというより、手を乗せると言った方が良いくらいせせり出た。明らかにそこにいて、それでいて成長していることがわかった。僕はこの状況から一旦離れるために仕事をした。つい妻のことを気にして、何か世話を焼く必要があるのではないかと思ってしまう。そんなことでは僕の方が疲れてしまう。いらぬ気遣いを忘れるために、仕事は丁度良かった。仕事は集中を要した。僕はとにかく仕事をした。考えすぎる僕には、一旦忘れるくらいの距離を取るのが良いに決まっていた。
予定日まで両手で数えられるくらいの時期、僕は妻と二人の日々の終わりを思って、少々感傷的な気分になった。僕は妻と二人きりの暮らしも愛していたから、今妻と二人で当たり前にしていることが、そうでなくなるのは少し悲しくもあった。ただ人生はそんなことが積み重なってきたはずで、思い起こせば三年や四年で学校を卒業してきたのだ。同じ会社に十年も勤めると、そういう気持ちを忘れてすっかり安定に慣れきってしまう。僕らは変化していくのだ。僕も、新しい生活を受け入れる時が来たのだと思った。まさにこれは卒業の悲しみだったのかも知れない。妻と二人、暑さを避けた夜の散歩の最中、しみじみとこの不思議な悲しみを分かち合った。きっとこれは今だけの特別な感情のはずだ。この時妻と分かち合ったのは悲しみだけではなくて、もうすぐ終わりを告げるこの妊娠期を、二人の力を合わせてなかなか楽しく過ごせたのではないか、そんな思いも含まれていた。

体重が2,500グラムを超えたと聞いた時、もう本当にいよいよだと思った。彼女はもう準備を整えたのだ。そして一方僕らの方はどうだ。僕はその時に備えて、何をしておくべきなのか、どんな気持ちを作っておくべきなのか、はっきりとわからないままで、ただ結局最後の最後まで妻の世話を焼かなければ気が済まないようだった。まるで家来も同然だ。妻もきっと、ちょっと落ち着いたらどうだと思っただろう。案ずるより産むが易しとはまさに今使う言葉だと思ったが、これは僕が自分自身に唱えるのではなくて、僕が妻にかけてあげる言葉であるはずだった。
妻は僕にたくさんの感謝の言葉をくれた。それを言いたいのは僕の方だ。君にはどうやっても代わってあげられない大変な仕事がある。僕のどんな努力にも勝る大切な仕事があるのだ。そんなことを思っている内に、それはごく静かに、おだやかにやってきて、僕の心に嵐を起こして、速やかに去った。僕はただ嵐の中で、傘を持ち続ける努力して待つばかりだった。僕は勝手に妻を頼もしい存在だと思っているだけで、実のところ妻もたくさんの心配があるに違いなかった。だから、きっと妻なら大丈夫だと信じるのは僕の身勝手な思いのようであり、しかしながらそう信じる他ないところもあり、僕は歯痒かった。そんな風にただそわそわとしている内に、事は済んでしまったのであった。

今からこんなに暑かったら、八月はどうなってしまうのだろうと思うような、猛烈な熱気の中で、彼女は初めて僕らと同じ場所で躍動した。僕と妻が、彼女をここへ招き入れた。ありがとう。勝手に呼び寄せてごめん。でも、うれしい。この世界に、ようこそ。