21歳である僕はまだその回数しか春夏秋冬のそれぞれを経験していないことになる、そう考えると、ああまだまだひよっこ、僕の若さを実感する。少年老い易く学成り難しということで、あせれあせれと身体に命令してはいるのだが、いかんせん布団が好きであるし、そもそも具体的に何をすれば?という用件がつきまとう、果たして僕は何から認められたいのであるか、またそれは何によって果たされるのであるか、何の鍛錬をつめばよろしいのであるか、といったようにわからないことは多々ある訳だ。まあでもまだまだ若い、などと僕はまだ若さを言い訳のためにしか使っていない、これはもったいない。
●
文章には若さがにじみ出る。僕は少々崩れた現代の日本語で育ったので、それがとても好き。四隅がきちっと揃った日本語を操るおじいさんの言葉は少々、まあ少なくとも僕自身が好んで使うことは難しいのであろうなあなどとは思うのだ。
さておじいさんは一体いつから自分のことを「わし」と呼んだり、語尾に「じゃ」をつけたりし出すのだろうかという問題に関して、これは僕の中にある解答が存在するのだが、それは『幼少期からそういう言葉を使っていた』というものであって、若い世代がそういう言葉から離れたので、お年寄りの言語として認識されてしまったということである。
この件に関連させて考えると、僕らはお年寄りになっても少々崩れた現代の日本語を使っていくことが出来そうである。若い世代から、年寄りの癖に若者の言葉使いやがってとは言われなさそう。それはとっても安心、使い慣れた言語を一生使い続けることが出来るというのは幸せだなあと思う。
●
しかしまだ安心するのは早いのではないか。そう例えば僕らの孫世代、彼らは果たして2011年現在の日本で横行している少々崩れた日本語をまさしく使っているのだろうか、僕らと近い世代で言うところのチョベリグやらチョベリバやらがまるで花火のごとく派手に生まれて地味に散ったように、言語が着ているお洋服はすぐに変わっていってしまうのではないか、若さが簡単に着せかえていってしまうのではないか、僕らが今話している少々崩れた日本語は、将来的には老人の言語となってしまうのではないか、そう思うと結構不安である。僕らが若さの象徴として、意識していなくとも潜在的な需要として、この少々崩れた日本語を使っているのに、それも僕らの老いと一緒にしわを増やしていってしまうのだろうか。それはとってもおそろしや。
僕らはまだ若い。「まだ」ということは、いつかは目盛があふれだすということよね、ということでまだ若いまだ若いとなんとか自分を落ちつかせるのである。
●
妹が僕に選んできたトランクス型のパンツ。後ろ面の図。なぜかキティちゃんが僕とそっくりなメガネをかけている。キティちゃんパンツは若さの象徴。
