2013/09/16

僕は僕のせいで産まれた訳ではないがだからと言って何がどうなるという訳でもない件

思い出したと言うよりも忘れたことがない、嫌な思い出は延々と忘れることがない、嫌なという言い方が正しいのかどうかわからないが、出来れば忘れてしまいたいようなことばかり覚えていてどうにも生きにくい。中学校の卒業式の日に父兄に宛てて感謝の手紙を渡そうという企画があって、予め用意しておいた手紙は式の受付で名前を書いた段階で父兄たちに渡されて、お父さんお母さんびっくり大喜びのような感じのありがちな企画だったのだけれども、その時の僕は『卒業だから親に感謝』の意味がよくわからなくて、今もわからないのだけれども、どうしてもその手紙を書きたくなく、それが僕の中だけで終わるものであればどんな嘘を込めた文を作っても良かったが、それが両親の手に渡るということがどうしても許せなくて、とにかくその手紙を書きたくなかった。

その時の理屈としては『卒業だから親に感謝をするべき』というのは全然筋が通っていなくて、親に対して感謝をしているのであればそれは卒業というタイミングでするべきではない、いやしてもいい、普段は言えないけれどもこの節目の時であれば言えるみたいなことがあっても不思議ではないだろうが、それは個人個人の気持ちによって成されるべきであって、決して学校で『みんなでやってみましょう』のような強制のされ方をするものではない、僕は特に親に対して産み育ててくれてありがとうのような気持ちを抱いたことはなかったし、そういう気持ちを仮に持っていたとすればそれは卒業式だからというタイミングではなく常に両親に対して言い伝えているべきであると思うし、だからそういうような理由によって僕は手紙を絶対に書きたくなく、だからと言って全体の行事をふける訳にもいかないので、僕はそのような気持ちを多少のオブラートに包んで『卒業というタイミングで感謝を伝えるというのは僕にとってあまり正しいことのように思えないけれども、無事に中学校を卒業することが出来ました。高校に入っても頑張ります』のようなどうにも内容の無い手紙を書いてしまい、それはそのまま両親の手に渡って、大人しい父は何を言うことも無かったが、考えるよりも先に感情が表に出る性質の母はまんまと『親に対して感謝も出来ないのか』のような気持ちにさせられており、何とも不快な気持ちを味わったのを僕は今でもよく覚えている。





それから高校に入り、大学に入り、会社に入った僕だが、基本的にはその時から自分の考えは変わっていない、僕は親に対して産み育ててくれた感謝などしたことがないし、何かの節目には親に対して感謝の言葉を述べるべきなどと言ったりあるいはそういうことをさせようとしてくる人、それがもっともの事だと信じて疑わない人などのことをとても疎ましく思う。

そもそもの考え方として、何故僕が生まれたのかということの理由に関して最も色々な感情だとか気持ちだとかあるいは詩的な表現を除いて言ってしまえば親が避妊をしなかったからであり、それってどう考えても僕が生まれたのは親の責任、あるいは親の勝手なのだから、僕が産まれたことについて僕自身は何の責任も持っていない、だから僕には両親に対して感謝をする義理もないし、金銭のかかる用事を代わりに済ませたり、住まいや食事や衣服を準備することも当然で、それに対して僕が何か対価を払うということも間違っていると思うし、産んでしまった以上この世界で何か不都合が無いようにしつけていくことも当然の義務であるからして、何をどうしようと親というものになってしまったからには子からはどんな見返りを求めることもなく子を育てていく任務を遂行しなければならない。というのが僕の考えで、だから僕も将来子供を作るとすればそれはそれは大きな決意をしなければならないだろうし、恩着せがましい気持ちによって金や物を与えるべきでなないだろうし、腹が立つことをされても自分が悪いと思わなければならない。

そもそも親に対して『産んでくれてありがとう』という気持ちを抱くという段階からよくわからない。よくある言い方として、何か素晴らしい体験をした時に『この世に生まれてこなければこんな良いことを味わうことも出来なかった』のようなものがあるけれども、それって『仮にこの世に生まれて来なかったのであれば損をしていた』という意味にもなると思うのだが、この世に生まれていない段階で自分という人の存在を否定している訳だから、損を感じる人も嬉しいと感じる人もいない訳で、産まれてこれたから感謝というのは単純に結果として残っている事実、産まれる産まれないの根本までさかのぼって良いとか良くないとか考えられるような事ではないと僕は思う。つまり『産まれてきて良かった』と『産まれてなかったら損をしていた』が表裏一体になって初めて『産まれてきて良かった』が成立するんじゃないの? と僕は言いたいのだ。





僕はこのような考えを生きる死ぬのような場面でも良く抱いていて、死ぬのが怖い、死ぬのは嫌だという気持ちに対して、それは正確に言えば『死ぬ⇒生きている時に普通に味わえる物事を味わえなくなるのが怖い』ということなのだと思うのだが、仮に自分が死んでしまったとしたら例えば『もっと美味しいものが食べたかったな』と思う自分は存在しない、と言うよりも死んだ自分がそのように何か考えを持つということ自体不可能なのだから、自分が死んでしまった結果に対して悲しいとかつらいとか思うことは出来ない、死というものは案外怖いものではないのでは、むしろ死というのはその時点であらゆる思考が終わるだけ、それに対してどんな感情を持つことも出来ないのだから全く恐れるに足らない事なのではないかとすら思える。

要するに『生きている時に普通に味わえる物事を味わえなくなるのが怖い』という考えは禁煙と同じようなもの、大好きなものを我慢している状態のことと似たようなものなのではないかと僕は思う。死に対して恐怖を抱くとすれば、それは致死に値する痛みを感じることへの恐怖とかそういうことになって来るのかも知れない、しかしその痛みですらも死んでしまえば味わうことが出来ない、中途半端に死にきれない傷を負った人が「自分を殺してくれ!」と頼むような、それで言うと森鴎外の高瀬舟のようなアレはこの件に関してとてもよく理解できる気持ちである。

だから自分が死ぬことよりもむしろ自分が気に入っている他人が死ぬことの方がどう考えてもダメージが大きい。いや自分が死ぬことに関して自分が受けるダメージはゼロなのだから、どうやっても他人の死の方が受け入れ難いことであるに決まっているのだ。僕は実を言うと今あまり家族とうまくやっていけていないのだが、それでも家族の誰かが死ねば悲しいだろうし、それなりにダメージを受けるはずだ。





どうしてこのようなことを考えていたかというと、何だかもうかなり疲れていてあーもう死にたい死にたいと思うこともあるのだが、自ら死のうとは全く思わない、自然と死がやって来るのを待っていた方がどう考えても良い、しかしながら今自分がやっていることだとかやらなくてはいけないことだとか、要するに生きていかなければならないということに関してなんで生きていかなければならないのだ? と考えた時に僕がこの世に生まれてしまったからであって、それは僕の考えによれば両親の責任なのだから僕は自分が生きていくということでどうして僕自身が悩まなければならないんだという気持ちになってしまい、考えているだけでどうなる訳でもない、だからと言って何が出来る訳でもない、つまり何も出来ない訳で、今日で三連休も終わり、明日は会社、あーもう死にたい死にたい、というもうそのような気持ちになってしまったからなのである。何てことだこの人生は。





新しいiPhoneが出るらしくて、冬には僕も今のiPhone4Sから買い替えるだろうけど4Sは充電の口が大きくてわかりやすいところとイヤホン刺すところが上にあるところが気に入ってて5はそうじゃなかったからなんだかやだな。