2015/12/12

コーヒーカップの柄に他人から見た自分を感じる件

 ラグビー日本代表の五郎丸選手の例のポーズが流行ったのは2015年秋の一時だった。なぜああいうことをやるのかと聞けば、毎度同じ成功イメージを描きながら決まった動作をすることで、どんな緊張が走る場面でも普段通りのキックが出来るから、というそんな感じのことだったと思う。あの一連の動作はルーティンと呼ばれているが、つまりは機械的と言ってもいい程にプレーを安定させるための行為なのである。
 別にあえてルーティンにしようと思っている訳ではなくて、いつの間にかいつも同じ動作をしているということがあるのは、それはレジの前、店員に対する接し方、もっと細かく言うと店員に対して何かを伝える行為、もっともっと限定的に言うとジェスチャー、ボディーランゲージの類である。僕はポイント欲しさにどんな小さな買い物でも使える環境であれば必ずクレジットカードを使うのだが、お支払い方法は? と聞いてきた店員に対しては必ず右手の人差指を立てて「一回で」と言う、これは必ず無意識の内に行っているもので、どういう訳かと考えると僕が初めてクレジットカードを持った22歳の時、支払い方法を聞かれた僕は他にどういう選択があるのか咄嗟にわからず、しかも初めてのカード決済で若干どきどきしていたから、しかしながらこいつさてはカードを使いなれていないのだなと思われるのも恥ずかしくて、とにかく詰まらずに何か言わねばと思った僕は「イッカイデ」と合言葉としての「山」に対する「川」のような感覚で口走り、しかもハンドジェスチャー付きで、だがそれを店員も了解した様子だったので、あっこれでいいのだな、という意識が芽生えた今よりも幼い時分の些細な出来事が思い出される。クレジットカードで決済をする時は常にイッカイ、これで万事うまくいく。
 人には人の考え方やら感性やらそれらを決定づける過去の出来ごとやら何やらがあるので、色んな人が色んなことをする、つい先日レジの前でレシートを断る際に手の平を相手に見せて左右にひらひらと振って見せる人を知って、ああ僕はやらないけどそういうこともあるのか、と思った。そして店員の人は色んな人の色んなことを目撃しているのだろうな、という気持ちがある。僕のルーティンはどう思われているのだろうか。

 営業マンというのはお客さまにとってはフロントマンであるので、社内の例えば納品物に対するサポート業務を行うメンバーなどを連れだって客先へ訪問する際には営業マンが場を仕切り、他を後ろにして馳せ参じるという体裁を取るのは当然である。例え営業マンがどんなに若造で、他がどんなに重役であってもだ。僕はこれを、つまり他を連れていく時というのは僕の力だけではどうにもならない事を解決する時と決まっているので、例えるならば僕がポケモントレーナーでピカチュウ! キミに決めた! と言って他を場に繰り出すようなそういうことのように最近は思っている。その日は僕よりも一回り年齢が上のお姉さまを二人、モンスターボールに入れて出陣した。
 客先への訪問が無事に終わり、それは渋谷で、洒落た喫茶があるので少し休んでいかないかということになる。お姉さま方はどのような種類の豆をどのような手法でどのような経歴と作法によって扱う店舗であるか、という評価軸を珈琲店に対して持っている様子で、ははあなるほど若造は先進の後を追うのみ。何やら何らかの理由で是非立ち寄りたい店のようだったが、外国語を聞くような気持ちで耳に入れていた。落ち着いた色の照明で外の空気がなく、時刻を強く感じない。例えるならば、という表現が僕の浅い人生経験からは引用してこられない厳かな雰囲気の内装、暗い色の木で出来た直立する背の高い時計と、各テーブルに一つずつ設えられた小さな間接照明、珈琲店とノートパソコンの組み合わせに酔った学生などいるはずもなく、壮年以上の客層を感じる。少し休んでいくところと言うよりかは、そこで過ごす時間を買い求めに来る場所のように思われた。メニューをちらりと盗み見るとブレンド一杯で僕の昼食代と釣り合うばかりか。
 初めての店ではスタンダード、つまりブレンドを三杯。好んで飲まないがコーヒーは嫌いじゃない。

 しばらく前の訪問先に対して納めた製品の社内サポート体制がああだこうだと皆で文句を言いながら、お姉さま方は感じていたかわからないが大きな話声も環境に合わないような緩やかな空気が流れる店内で、何だか逆に落ち着かない時間を過ごした数分後、お待たせしましたと女性の店員、女性に先に二つ、後から僕へ一つ運んでくる。すぐに気付くのはコーヒーカップの柄。こういう店なら、というくくり方をしていいものかわからないが、いわゆるチェーン、グループ、そういう類の店でなければそういうこともままあるが、全員違う柄のカップ。そして何だかよく見てみると感じることは、この柄はもしや各々のイメージに合った柄を店員が見繕っているのではあるまいか、と言うことである。
「これもしかして全員のイメージに合ったカップを選んでるんじゃない? 道理であたしのカップだけすごいドぎついんだけど!」
などとそんな言葉が面白くてよく覚えている。お姉さま①はこのような明け透け、ざっくばらん、無邪気で舌が休まらない。見た目も輪郭がシャープと言うか角がはっきりとしていて、いかにもひるまずに物を言うタイプのように思える。カップの柄は自己申告通り、濃いピンク色で花弁の大きな薔薇が外周を包み、金で縁取られている。
 お姉さま②は①よりも随分大人しく、服装も含めて柔らかな印象がある、純日本的な落ち着いた顔立ちで、話す声にも紗がかかるような。カップには淡いピンクで小さな花のパターンが描かれている。
 そして男性一名僕にあてがわれたカップには、群青色2センチ程の幅のラインがカップの外周に渡り、金の細いラインが群青色の上を規則的に上へ下へ斜めへのパターンで巡っている。どんな印象かもう客観的に見ることが難しくなっているが、こういう柄がどこか男性的であることはよくわかった。女性に出すはずもない柄である。どこか真面目と言うか堅いと言うか、定規で引いたような規則的なパターンが几帳面で融通の利かないイメージを想起させる。お姉さま方は君っぽいよ~という評価だったがそれをどう受け止めて良いのか。
 コーヒーの味を語れる程大人では無いが、場の空気感はわかるので、おいしいですねなどと言いながらコーヒーをすすった。お姉さま方はそのコーヒーカップをどこの誰が生産したかということにも詳しいらしく、鑑定人のようにカップの裏面に記された文字を見ては頷いたりしていた。僕はカップの柄をやはり見つめて、この真っ黒で太い縁の眼鏡のせいだろうか、と考えていた。なかなかどうして他人から自分がどう思われているかということについては不思議な興味があって、それはつまり他人に認識をされている、評価されるほど詳細に見られているということの証だから、なるほどそういうことかという腹落ちがあった。

 学生時分、弁当屋でアルバイトをしていた友人が、子供が来ると弁当にシールを貼ってやる、シールには赤青黄色など種類があって、その子供の着ている服の色と同じ色のシールをあげることにしているのだが、赤青黄色のまじった服を着た子供にどのシールをあげれば良いのかわからなくなってしまった、という話をしてくれたことをよく覚えていて、僕はそのエピソードの何とも素朴なかわいらしさがとても好ましい。僕だったらどんな風にシールをあげるか、元気な子には赤、大人しい子には青かも知れない、そして何故自分は赤を貰ったのかと考える子はどんな大人になっていくのか考えるとぞっとする気持ちがある。人からどう思われているかということを気にせずに生きていくことは少なくとも僕はもう無理だとコーヒーカップの件でよくわかったのが秋口の渋谷での出来ごと。もしも僕が五郎丸だったらルーティンのポーズを取る自分が他人からどう思われているかということが気になりすぎて、落ち着いてキックなんて出来やしない。