2026/08/26

孤独を与えられている件

 未知の感染症に対して、我々の生活が脅かされるのではないかという恐怖感が社会を席巻し始めたころ、僕が新卒以来務めている会社は完全なテレワークとなった。オフィスに行っても自分の席はなく、オフィス自体もテナントを返却して面積を縮小させてしまい、どうしても出社しなければならない用事がない限りは自宅にいることが推奨され、僕らは急激に孤独を与えられていった。


時を同じくして僕の妻は2022年の秋ごろ妊娠していて、23年の夏に出産をした。僕は妻の出産に立ち会うことに際して、一人自分の振る舞いや心持ち、妻にかけるべき言葉など、様々な身のこなしについて思いを馳せていたのだが、病院という極めて清潔で無菌であることが求められる空間に対して、妊婦の家族と言えども子を成す能力のない人間は近寄らずに自宅で待機していなさいということになり、そもそもわが子は逆子で妻は帝王切開をするので、立ち合いも何もなく、手術予定日に僕は自宅で一人ハラハラしながら自分のスマートフォンが鳴るのを待っていたのであった。手術日が決まっている、つまり生まれる日とそのタイミングがある程度わかっているということは、不意打ちが無いということで僕の心理的安全性を守ってくれたとは言える。つまり妻が大変な手術をしている時にも僕は孤独だった。

妻が出産をして、産後一か月は妻が実家に戻った。僕は在宅勤務をしているとは言え、妻の実家に僕が日中居座って業務をしていい場所はないし、無駄に残業などしていれば、義母に心配をかけてしまうかも知れない。僕は自宅に残り、週末だけ妻の実家へ通う生活をつづけた。またしても僕は週末以外は基本的には孤独が与えられた。

そして産後一か月を過ぎて妻が僕と暮らす自宅に帰ってきた。わが子も初めて自宅にやってきた。家族三人の暮らしが始まった。しかし僕はこの自宅がプライベートを確保する場所でもあり、収入を獲得するための場所でもあり、色々な役割がないまぜになった場所であるので、妻と子がいることで、この自宅という場が持つ役割のキャパシティの中における、僕の与えられた孤独の割合が急激に小さくなったことを感じた。つまり僕の孤独は奪われたのだ。

孤独は基本的には悲しく寂しいものだと僕は思う。できれば避けたいものだと思う。ただし全くなくなってしまっては困ることだとも思う。僕は在宅勤務を強いられることで、業務時間が孤独だったのだ。インターネットを通じていつでもコミュニケーションを取ることは出来るかも知れないが、この身が存在しているこの空間を支配しているのは僕ただ一人なのだ。僕は感染症の流行によって孤独を与えられていたのであった。妻は在宅勤務ができない仕事をしているので、常に出社していた。産休に入るまで毎日マスクをつけて外出していた。僕は妻の会社からも孤独を与えられていたのであった。

孤独である時間はどうだ。僕は人に出すには行儀のよくない、ただしうまい飯を昼食に、台所で立って食うことができた。孤独が僕に与えたのはたったこれくらいのことだ。しかしこれが必要で重要なことなのだ。誰の目にとまることも想像する必要のない、真に虚心坦懐な状態はこれでしかありえないといった気持ち。これは孤独しか僕に与えてくれないことだ。

しかし孤独には終わりが無ければいけない。孤独は終わるという前提が僕に安心感を与える。妻が帰ってくる。孤独が奪われる。その代わりに安心感を得る。孤独はそれが終わるということがわかっている時でなければ、つまるところ致死量があるようなものだと感じる。だから僕は結婚したとすら思える。

2026年夏。わが子は3歳になり、自分の言葉である程度思いを伝えてくるようになった。子どもがいる時間は孤独とは無縁だ。完全に孤独が奪われている。しかしながら満たされる思いは何物にも代えがたい。僕の在宅勤務は続いており、僕が勤める会社は今後何かよほどのことが無い限りは毎日出社しなければならないという形式へと戻ることは無いだろう。会社は僕に孤独を与え続けている。そして平日、子供は保育園へ行き、妻も会社へ行く。その間僕は孤独を得る。孤独な時間は自由だ。オンライン会議ツールを使って誰かと会話していたとしても、この身は完全に孤独だと感じる。誰も僕に干渉できない。人と接することこそが仕事だと思っていたが、仕事とはそういう性質のものではなくなった。僕は孤独な時間によって得た金で暮らしている。

そして一日の終わりに孤独が終わる。元気のよいただいまという声が玄関から聞こえてくる。僕の孤独は終焉を告げる。安心感と共に明日の孤独を楽しみにする気持ちが芽生えてくる。僕は孤独を与えられている。幸運にも、与えてもらっているのである。