高校へは推薦で行ったので、みんなが必死こいて受験勉強をしている間、僕は親の目を盗んでエロサイトに通うことだけを考えながら生きていて、あなたは十八歳以上ですかという質問にあと三年かァなんて思いながらイエスを踏んでたりして、そういう風に日々を消化している時期があった。受験期に暇な人は他にも結構いて、そういう輩は学校へ行くと専ら卒業制作づくりに励むことになる。僕らの時は、手の平大の小さな木の板をたくさん並べて大きな一枚の絵にするという感じのものを作った。木の板にはカーボン紙で下書きがしてあって、それをなんだかいい感じに彫刻刀で彫る。掘ったそれを並べてみると、なかなかみんなで作った感があってじわり、これが完成したということよりもむしろその仲間感にやられてしまったりした。
こういうのは結構女の子の方がやりたがるらしく、数十人の制作グループには女の子もたくさんいた。オナニーの時頭の中に出てくるような子はいなかったかも知れないが、女の子と一緒に何かをするというのはなかなかに心浮つくものだし、それなりに緊張感も生まれてくる、何しろ僕は十五歳であった。
当時の僕は異性達からどう思われていたのか知らないが、その時僕には「●●ちゃん」というあだ名があって、それは僕の苗字の頭の字を一字取って、そこに「ちゃん」を付けたもの、例えば浜田さんが浜ちゃんと呼ばれるようなものであるが、男女の隔たりなく、結構みんながそのように呼んでくれていて、僕はなかなかに有頂天であった。僕の通っていた学校では呼び捨ても結構飛び交っていて、それは仲の良い男共が使うだけではなく、女子が男子を呼び捨てにするケースも取り分け珍しいものではなかった。僕もいくばくかの女子らには呼び捨てられていたのだが、それでも僕にはあだ名がある。愛称で呼ばれるというのは気分が良く、特に女の子らから呼ばれると、呼び捨てるよりかは近しい間柄と思われているのかなァなんて嬉しく感じたりするものだった。そのようなことで、僕はいくらかの女の子達とは仲良くしてもらえているのだろうなァという風には考えていたのである。
そしてそれはある時突然起こったのだが、作業も一段落ついたあたり、一人の女の子がいきなり僕の手を取り「●●ちゃん綺麗な手だねえ」と言うということがあった。僕は彼女のことを仲良くしてくれる女の子の一人というくらいにしか考えていなかったのだが、それにしたって異性からそんなことをされたら焦るに決まっている、今回ばかりは彼女が悪い、何しろ僕は前述の通り十五歳であるのだ。
僕はこの後どのようにしようという風に考えを持つことも出来ないまま、それは反射であって、掴まれた手をひゅっと引っ込めながら
「汚い汚い」
と言った。これはどういう意味かと言えば、もちろん「僕の手は綺麗なんかじゃないよ、冗談きついぜへいへい」ということであって、別に自分の手を綺麗だと思っている訳ではないけれども、日本人らしい自分を褒めたがらない精神から出た否定である。しかし、これを言ってしまった直後に僕は、もし「お前の汚い手で僕の手に触れるんじゃない」という意味で取られてしまっていたとしたらどうしよう、ということを思った。「汚い汚い」だけでは、一体どちらの意味で言ったのか、一体何が汚いのかがわからない。
これはもう今から数えておよそ六年前の出来事であるが、僕は未だにその時のことを忘れることが出来ない。あの時もっとわかりやすく、落ちついて、例えば「そんなことないよ」なんて言えていたら随分ましだっただろう、咄嗟に腕を引っ込めてしまっていたとしてもだ。後悔というよりも自分を情けなく思うようなそういう気持ちになって、今ならばそのような対応が取れるのであろうかと実にならないことを考えるのである。
●
相手がどう思ったかなんて、基本的なことだけれどもやはりわからない訳である。僕が「お前馬鹿だなあ」なんて言って、相手が「ははは」と笑ったとしても、腹の底では「このやろう」と思っているかも知れない。仮に相手が「怒ってないよ」と言ってくれたとする、でもそれでは本当に相手が怒っていないということを証明することが出来ない。要するに相手が説明してくれたって胸の内までは読めないよねという話であって、こればっかりはいくら必死になって「本当なんだ! 嘘じゃないんだ!」と言ってもそのことが真であるということの証明にならないのだから、僕らは誰かと接する時、ある程度の妥協点を見つけておかなければならないよね、という件。「怒ってないよ」を鵜のみにすることは出来ないけれども、そこは妥協して、それを信じておくということである。基本的な話だけれども。というより、あえてこんな意識をしなくても、僕らは無意識の内に自分以外の人に対して妥協していることになるのではないかと思っている訳だ。
先日大学のサークルの先輩から「入会当時お前(僕のこと)はわからない奴だと思われていたぞ」という話を聞いたが、僕に限らず他人がわからないのは当然の話である。先輩ももちろんそのような意味で言った訳ではないとということくらいわかっている、考えが読みやすい人読みにくい人というのはいるのである。けれども、他人について僕が読んだ内容がどの程度正しいのかなんてどう考えてもわからない、逆に言えば、相手が僕をどのように読んだかということだってどう考えてもわからないのだ。僕は最近そのようなことを意識するようになって、昔からそれを潜在的には知っていたのかもしれないが、このようなことだという風に考え始めてしまうと、必要以上に首を引っ込めて人と接するようになってしまうから、なんだかなァ、だがこのことに気付けたということ自体は収穫であるのかも知れない、といったような感じで、なかなかに複雑な心境に陥るのである。
●
あだ名の件。当時僕には、僕からの一方的な思いだったのかも知れないが、特に仲が良いと思えるような異性がいて、その彼女はもちろん僕のことをあだ名で呼んでくれていた。しかし彼女は周りに僕のことを呼び捨てにする女子がいると、気まずい思いがあるのか同じように呼び捨てにしてくるのだった。それで特に扱いが変わる訳ではなかったが、僕はそれをえらく悲しく感じていて、そんな自分を気味悪く思っていて、家に帰ってから満たされないいろいろな思いをぶつぶつと独りごちるのであった。このあたりが日本語の、優れており厄介でもある点なのだろうなという風に今となっては考える。
●
スマホの画面にこのような指紋がついていたが、良く考えればこれは麻雀のアプリ、牌を切る時の指紋である。他にもこのような指紋がついたスマホを使っている人がいるかもしれない。
