2011/12/08

最初から食べられないとわかっている物だから安心して食べられる件

キウイフルーツは六つくらいが一つの箱(ふたがない、船型の箱)におさまって売られているものがあるようで、我が家ではいつからか、その箱の中にみかんを入れて好きに食べたり食べなかったりするという習慣が生まれていた。その箱が置いてある位置にエアコンのあたたかい風があたるのか、異様にみかんが悪くなるのが早い気が僕は近頃していて、食べようと思ってつまみあげると皮に果汁が染みてやわらかくなってしまっていたりするのでちょっとだけどうにかならないものかなァと思いながらもどうにもせずに日々を過ごしている。僕はみかんの薄皮についた白いやつを綺麗に剥いてから食べたいので、なるべく実がしまっているものがよろしい。

そんな訳で、一部やわらかくなったみかんを見つけると一瞬「うわあ」と思ってしまう訳だが、目ざとく僕の様子をとらえた母親が「あんまり細かいこと気にしてないで食べなさい、男でしょう」のような内容について僕に言うのである。みかんの白いところを綺麗に剥いている時にも同様のことを言われるが、この件に関しては「白いところは残すと苦い」とかそういうことではなくて、もはや「いかに綺麗なみかんを作り上げられるか」という点について僕はこだわりだしている訳だ。まあその件は置いておいたとしても、やわらかくなったみかんの皮を剥いてみると、中身の薄皮もしわしわとしぼんでいて、食べてみてもなんだかまずい訳ではないのに妙に不快な食感がするのである。





先日、またもややわらかいみかんを捕まえてしまって「うわあ」となっていると、妹に「お兄ちゃんは食べられなさそうな食べ物は食べたくないくせに、食べられないものは食べるんだな」のようなことを言われた。というのも僕は幼い癖で恥ずかしいのだが噛み癖がある。食べられないものを口に含んでは気の済むまで噛み続けるのである。今はもうしていないが、中学校に上がるくらいまではよく、自分が眠るのに使っていたタオルケットの端っこを噛んでいたし、ファーストフード店などに行けば今でも間違いなくストローを噛む。アイスの木の棒は特に大好物で、あの棒だけで売ってほしいくらいだ。高校生の時には部活動の休日で一日暇な日があったので適当にインターネット界隈をうろつきながらペットボトルのキャップを噛み続け、口の中を気付かぬ間に血だらけにしたこともあった。妹はそのことを知っていて、皮肉ったのである。

そのような食べられないものを口の中へ入れることには何の抵抗もない。タバコを吸う人が「口がさみしい」と言う気持ちが、僕は喫煙者ではないがわかるような気がする。口に何かを入れておくと、妙に安心するわけで、そこに味は必要ないしむしろいらないのである。するめなんかは顎がいたくなるまで食べているし、ガムは味がなくなっても次の食事の機会まで噛み続けるといったようなことがよくある。要するに何か、顎を動かせてくれるほどよい弾力を持ったものがほしいという、それだけなのだ。

このようなものは、「はなから食べられないもの」なのである。しかしやわらかくなったみかんは、「食べれるかも知れない食べ物」なのである。ここにもう食べられる可能性があることが鬱陶しいというか、むしろ食べられないと最初からわかっているから安心して口に入れることが出来るといったような思考回路が僕の中に出来あがっている。リスクを負って挑戦するくらいなら、最初から降参した方がいいというか、どっちかわからないという不透明な未来が何ともわずらわしいもののように感じるのだ。





という話を妹にしてみたが、一向に理解を示してくれない。いつしか「食べられないとわかっている物だから安心して食べられる」というフレーズが、どこかむずむずと笑いを引き起こすフレーズとなり、ただふざけて笑うだけになってしまった。と言うか、食べられないものは「食べる」訳ではなくてあくまで「噛む」ものだ。だがしかし「口に含む」という点において妹は納得のいかない表情をあらわしている。






こういう感じにみかんが入っているのです。