2012/03/16

凡才子役は存在しない件

だんご三兄弟の歌が今ではすっかり「ああ、そんなのもあったねえ」と言われるようになった。マルマルモリモリもきっとそうなるはずだし、大きくなったマナちゃんフクくんは当時の映像を振り返りながら恥ずかしそうな顔をするだろう。そんな画がありありと思い浮かぶ。

近頃は演技の上手な子供たちがたくさんテレビに出るようになってきた。男の子はただただつるりとした顔で子供然としているだけで、女の子は大人のような目をしながら子供然を演じているような、そういう気がしている。僕はただのひとなので、僕と近親以外のひとに僕の子供のころのことを振り返られることはないのだけれども、彼らは子供時代のことを容赦なく赤の他人へぶわわと散布されて、それがひどくかわいそうだと思うし、彼らの子供時代を他人のくせに知ってしまったことへ申し訳なさを感じたりもする。昔を振り返るってはずかしい。かわいいかわいいと持ち上げられて、仮面ライダーになる夢を語らされるフクくんの将来のことを思うととっても申し訳ない気持ちになる。まわりの大人に、そんなに聞いてくれるなよって思ったりもする。





さて
僕は読書が趣味なのだけれども、若い作家の文庫の裏、つまりはカバー裏面に印刷された数行のあらすじに、必ずと言っていいほど「瑞々しい感性」あるいは「瑞々しい筆致」という文言が入っていることにいささか納得がいかないというか、いや納得がいかないのではない、何というか「またかよ」とか「他に書くことないのかよ」とか思ってしまうのである。
まあそれはいいとして、近頃そういう子供たちが出てくるテレビ、とりわけ演技の舞台ではなく、素の状態で楽しくおしゃべりをすることを求められるようなものを見ていると、必ずと言っていいほど彼らの肩書きは「天才子役」となる、ということに妹が納得いっていないのである。

だから要は天才子役という言葉のニュアンスとして
「子供なのに演技が出来る、だから天才子役」
「数多く存在する子役の中でも選りすぐりの名優である、だから天才子役」
という二つがあって、妹によると、この場合は前者のイメージが強く伝わってくるらしいのである。なのでドラマの一つでも出てとりあえず演技が出来た子供はみんな天才子役になってしまうわけで、そんな子供たちを捕まえて「天才子役!」だなんておかしいという話。
つまりは、子供は演技が出来れば「子供なのにすごい!」という評価がつくから、子役な時点で天才になる。その為「子役」という言葉には「子供なのに演技が出来る天才児のこと」という意味がついてしまう。だから天才子役という表現は最早二重表現なのである。凡才子役なんて存在しないのだ。
なんて話を妹がするので、僕も「確かにおかしいな」という気になってくる。まあ何というのか、子供は生きた時間も、経験を積んだ時間も、努力をした時間も短い訳だから、その時代に発揮される能力というのは天賦の才であるという感じはするわな。そう考えると妹の話がますます的を射た意見のように感じられる。子供は演技が出来た時点で天才なんだからあえて天才子役なんて書き方をするのはおかしい。うん。そうだおかしい! とすっかり僕も「天才子役」という言葉の響きに違和感を感じる身体になってしまった。





僕は幼稚園のころクラスで一番背が高くて、砂遊びが好きで、左肘を骨折して、十円ガムをよく食べていて、まあそういう感じのことを思い出す。今では難しい本もたくさん読めるようになった僕に母は「あんたが小さい時にお母さんがたくさん本を読み聞かせてあげたから今のあんたがあるのよ」的なことを言うが、もしそれが本当なら母に感謝しなくてはならない。いやしかし僕が読書の価値に一生気づかない人生を送っていたとしたら、その人生の中には読書の価値はもはや存在しないのだから「読書をすればこんなにいいことがあるのに」ということにも気がつかないはずなので、一概に読書をする人生が良いのか、そうでない人生が良いのかということを判断することは出来ない、いやもう僕は読書をする人生を送ってしまっているのでそのどちらが良いかという判断を下す存在にはなれない、そう考えると誰もその判断を下すことはできない、だからまあどんな人生を送ったとしてもオンリーワンなんだよね! みたいな落ち着き方をすればいいんじゃないかな? という感じに理屈をごねるような性格に僕が育った要因は何なのだろう母さん。
先の意味で「天才子役」という言葉を受けると、必ずしも彼らは天才俳優・天才女優に成長する訳ではないのかも、なんて、僕も二十代になったばかりだが歳はとりたくないね、と感じる。彼らも一生天才子役でいるわけにはいかない。難しい問題です。






特になにもないからうさぎ。さいきんとてもうさぎを丸めたいと思っています。