2016/02/07

僕の大切な利害関係者の件

 どんなあしらい方をしようともそれが誰に影響をあたえるわけでもないようなどうでもいいことはもちろん別として、自分自身の気持ちだけで何かを判断したことがあまりない。中学の進路希望調査で、なぜ高校への進学を希望するのかの問いに「みんな行くから」と回答したことをよく覚えている。根の深いところを読み取れば、みんなが行く高校に僕が行かなければ両親はどんな風に思うだろう、両親はどんな風に周囲から思われてしまうだろう、という思考が隠れていることがよくわかる。思えば僕は幼少期から、僕自身どのような人生を歩めば僕の人生の利害関係者に対して少なくともダメージを与えることなく生きて行けるのだろうかということばかり考えてきたことに気が付いた。
 ものすごく単純に、わかりやすく端的に、包み隠さず有体に言ってしまえば、僕は僕自身の気持ち以外からの求めによって、向いていない向いていないと思いながらも通勤電車に乗っているのである。ここで間違えてはいけないことは、そうやってはっきりと誰かから言葉にしてそのような選択を求められたことは一度もないということで、すべては僕の中で完結している。僕の頭の中に意思決定を司る承認機関がおそらくすごく昔からずっとあって、そこの議席には僕の人生の利害関係者はその決定に対してどう思うかということによって弁を振るう担当者がたくさんいて、例えば仕事を諦めたいという議会の主題に向けて、恋人を不安に思わせてしまうに決まっている! とか両親はきっと困惑するはずだ! とか祖父のあの時の言葉を忘れたのか! みたいに利害関係者ごとに割り振られたたくさんの担当者が強く意見をぶつけて、結果まだまだやれるはずだという決定が機関の総意として打ち出されることになる。僕は人生の大切な選択の場面で、いつもそうやって舵取りの方向を決めてきたのだと思う。

 性格とは持って生まれたものか。幼児期、僕は熱い浴槽に入れてもじっと我慢して文句を言わず、震えながら親の顔を見つめるような子供だったと聞く。自分でも覚えていないくらい昔のことだから定かではないが、今の僕の理解として納得しやすいことは、ここで大人しく湯に浸かっていれば両親は喜ぶはずだという考え方で、何とか思い出せるくらいの幼少時代になれば、両親からの求めに応じて、こう返したらきっと喜んでくれるだろうなと思って言葉を発することがよくあった。誤解がおそらくあって、僕は我慢をしているがそれは我慢ではない。僕の我慢によって僕の人生の利害関係者が喜んでくれる、腑に落ちてくれる、安心してくれるのであれば、そこに我慢の気持ちはないのだ。相手の気持ちを優先して折れてやっているんだぜ、ということでは決してないが、なんとも主体性のない話で、よくないのは様々な利害関係者の思いを考慮して下す決断が何かをするではなくて何かをしないに落ち着くことが多いこと。僕がとても臆病で頭にクソがつく類の真面目な性格であることが重なって、つまり少しでも道を外れたら現在の利害関係者からの支持を失ってしまうのではないかという懸念を強く強く感じてしまって、結局事を起こさない方向に進んでしまう、もとい進まずに立ち止まってしまうのである。
 しかしながら自分のしたことで誰かに悪い影響があるかも知れない、ちょっと控えておこうかななんて考えることは僕に限らず誰にだって多少はあってもおかしくないと思う。我慢できずにやってしまうのが子供で、周囲への影響を考慮して踏み止まれるのが大人という棲みわけもきっとある。決して間違った考え方ではない。重要なのはレベル感、過剰に周囲を意識しすぎて足が止まるのも良くないよねという事。

 僕の大切な友人同士の夫婦に子どもができたと聞いた。全部ではないかも知れないが、その人がどんな性格を持った大人になるかということ、それは後天的に、育った環境に反応して身についていく部分が大きいように思われる。あの2人の子どもだから、きっと変わった、もとい個性的で魅力的な言葉を使う人になると思うな、なんて考えていたら僕はどんな風に育って、どんな性格の大人になったんだろうということを思った。