2016/02/14

ライチ☆光クラブに出ていた女の子のおばあちゃんの気持ちの件

 諸々のタイミングがちょうど重なって、封切りの日に「ライチ☆光クラブ」という映画を観に行くことになった。まず外出をしよう、次に映画を観よう、そしてこの映画を観ようという順番で決めた予定であるので、その映画を元々知っていて公開日が来るのを待ち望んでいたという訳ではないにせよ、その日観ることが出来る映画の中ではこれが面白そうだな、と思って選んだものであるし、観たという事実によって他人から「あの映画観たんですね、どうでしたか?」と言われそう、つまり世間から注目されるべき映画であるように思われたので期待が募る。前夜の残業中、業務用のパソコンから席を予約しようとする僕の瞳は爛々と輝いていた。雨のマークがついていたので心配したが春先のような暖かさで、着てきたコートを少し邪魔に思いながら渋谷へ向かう。

 封切りのタイミングということもあって小さな劇場はその映画のグッズやポスターで覆い尽くされており、集まった皆がこの映画の公開を待ちに待った人々であるかのように思われた。名前も知らない若い俳優がたくさん出演する映画であるようなので、これから売りだしていこうとする彼らのファンであるとか、その映画の原作を愛している人であるとか、きっとそういう人達が集まっているはずで、とにかく劇場入口前の受付が温かい期待の色に染まっているのを強く感じた。その映画というのは、これは完全に偏見のみで言うのだが、古き良き映画の作法を守った、その筋の人が言うところの「本流」めいたものの上を忠実になぞった由緒正しき系譜のザ・エイガを愛する人々からは好かれにくそうな、何と呼ぶべきか新進気鋭さ、観る前にそんなものを感じさせる内容のように思われたので、劇場が纏う温かな期待の雰囲気の中にどこかメインカルチャーには魅力を感じないことを大っぴらに主張する人間特有のあえて微妙に外す感じ、をかすかににおわせる何かがあった、という偏見を抱かせるようなニュアンスを持った映画であるとそんなことを思いながら入場したのである。

 内容や展開について細かい言及は避けるにせよ、R指定のついた映画であるので簡単に言えば過激なシーンもたくさんあるものであって、僕という人間がこの人生の中で劇場まで足を運んで観た映画というのがやれポケモンだやれハリーポッターだやれジブリだというそういうことになっていたので新たな扉を開いた、と言うよりはこんなところに扉があったのか、というレベル感の話で、端的に言うとドキドキして怖かった。それに至る経緯や理由などを度外視にして事実だけを述べるとすれば、人が凄惨な死に方をする映画ということである。
 そしてそういう要素があるからと言ってつまらないとか、好ましくないとか言う訳ではなくて、ストーリーの中の必然としてそのシーンが描かれているのであればそれはそれで納得出来る訳で、観終わった後には「ははあ、なるほどね」と思ったし、一緒に観ていたパートナーの話を聴けば「ああそういう観方も出来るのね」と感じることも出来た。ただ僕はあまりに今までの人生の中で、例えば血の赤さを感じることのないフィクションを愛して生きてきたので、ちょっとばかし心臓がドキドキしてしまったのである。実際そのようなシーンの時には嘘みたいに胸が鳴るのを感じた。

 基本的には物語が終盤に向かうにつれ、何か一筋でもいいから希望を感じさせる未来を僕に見せてくれ! という気持ちで観賞していたのだが、学生時代に純文学にかぶれていた名残で作者の意図であるとか、フィクションとして創作することで表現しようとした思いであるとかそういうことが気になり出す。単純に人が死ぬだけの物語では決してない、この死の持つ意味は、と例えばそういうこと。ただしやはりこれは映画、視覚から入って来る情報が多すぎるのでどうしても目に映るものに直感的な意識を奪われやすく、作り手側への考察は薄れ、そうしている内にどうしようもなくはらはらと思うことが生まれてきてそれは少女のおばあちゃんの気持ちのことだ。
 物語の鍵となる存在として描かれる少女が一人いて、彼女もまた凄惨な死の場面の目撃者になっていく訳だがここで僕の思考は彼女の親族、ここで言う「彼女」は役としての「彼女」ではなく、劇中の彼女はカノンという役名であったがカノンではなくて役をはぎとった個人としての彼女の身内のことで、特におばあちゃんのことで頭がいっぱいになる。例えば彼女は売り出し中の若手女優、劇中のキーマンとも呼ぶべき重要な役が決まったぞ、これは大きなチャンス、役作りにも精が出るわ、ということだった場合。そして彼女のおばあちゃん、孫が芸能界という厳しい世界に身を投じて心配していたけれど、とある映画の大切な役に選ばれたらしい、これはとっても喜ばしいことだわ、きっと劇場まで観に行くからね、ということだった場合。そしておばあちゃんが血の赤さを目撃してしまった場合のことだ。ここで僕がしていた要らぬ心配は、若い女優のおばあちゃんが孫の晴れ舞台をうきうきしながら観に行った先でショッキングなシーンを目に焼き付けてしまうこと、そういう類の映画に孫が出演していることを知ってしまうこと、それに対しておばあちゃんが抱くであろう筆舌に尽くしがたい気持ちのこと、そういうことなのだ。フィクションの世界がノンフィクションの世界に与える影響について考慮せずにはいられないのである。
 それは彼女自身は女優になるという決意を持ってその世界へ入っただろうからそれなりの覚悟があった上でその役に向き合っているはず、そしてその親だって、大切に育てた娘が本気で挑むものであるならばという気持ちで、千尋の谷へ我が子を突き落とす獅子のような思いがどこかにあるだろうし、またあるいは芸能界なんて傍目には怪しく輝いて見える世界へ我が子を入れんとする親であるならば案外アナーキーな思考で満たされた人種であるかも知れないし、なんてそんなところまで余計な思考が及んだところで眼前にロールしてくるのは優しい目をしたおばあちゃん、お盆の帰省を待ち望んでいるおばあちゃん、近頃膝がめっきり弱ってしまったおばあちゃんのこと。ごくごく近い近親者が平気だとしても、田舎のおばあちゃんはそうはいかないはずだ、ここで僕の脳裏には東北ののどかな田園風景が展開される。畑で採れた不揃いの野菜を送ってくれる、腰が曲がっても働き者のおばあちゃんのことで頭がいっぱいになる。そして向き合うは赤黒いスクリーン、どうか、どうかおばあちゃんの為に望みの糸を切らないでおいてくれ! 祈るような気持ちの僕の胸には怯えた表情のおばあちゃんがいて、瞳を両手で優しく包みこみ、大丈夫、大丈夫だよと心で唱えるのであった。

 部屋に戻るとお笑い芸人がたくさん出ているテレビ番組がやっていて、先ほどまでが嘘みたいに笑った。単純にどちらが良いという話ではなくて、辛い食べものも甘い食べものもどちらもおいしい。そういうことで済めば良いのだが中々どうして僕が思い及ばなくていい範囲のことまで心配してしまう癖があって、そう言えばお笑いのテレビを観ていて漫才師が私も今年で45歳なりましてまだ独身で~などと言うと「えっ、ご両親はどんな思いなのかしら…」なんてそんなことを思ったりもした。もう少し自分本位になるということを今年の目標に追加してもよい。