2016/03/19

課長への贈る言葉の件

 いつかの折、あなたに働くモチベーションについて聞かれたことがありました。その時私は、自分にとって大切な人たちに不安な思いを抱かせたり、心配をさせたくないので、働くことを諦めるわけにはいかないと答えたことを覚えています。私は誰かの為に頭と身体を使うことに喜びを感じる性質を持っていますから、だから何を恐れるかと言えば、他人に嫌われることとか、がっかりさせてしまうこととか、誰かに私を諦められることが恐いのです。そしてそういう私ですので、私から誰かを嫌いになったり、誰かに呆れてしまうようなことがとても苦手で、仮にこの人苦手だな、と思ったとしても、そんな風に思ってしまうのは申し訳ない、可哀そうだ、という気持ちが現れて、すぐに考えを改めるのです。
 かつて私の実家にあったプレセア、という型の車を思い出します。プレセアは父が初めて持った自家用車で、私が確か小学生の低学年くらいの頃まで実家にあったかと思います。ある日そろそろ車を買い換えようという話を持ち出した父と一緒に、実家の近くにあった販売店へ行きました。そこで試乗した車はプレセアよりも背が高く、頭上に余裕があり、カーナビもついていましたし、正面から見た顔も精悍な感じがして、プレセアよりも随分魅力的に目に映りました。やがてその車が新たに我が家へやってくることになり、プレセアは引き取られていく準備が進められました。今日でプレセアに乗るのも最後だというその日、父の運転するプレセアの中で、今日が最後だということに気付いてしまった私はとても悲しい気持ちになり、涙をぐっと堪えていました。新しい車を歓迎する気でいたのに、今まで一緒だったお前がいなくなってしまうのは、何だかとても悲しい、そう思ったことをよく覚えています。

 私はあなたのことを嫌っていました。子供の頃ならいざ知らず、大人になった今、人をこんなにも嫌いになれるなんて思ってもみませんでした。私はあなたの気分屋なところが嫌いでした、うれしい時には調子の良い言葉を私にかけましたが、何か気がかりなことがある日には、話しかけても冷たい目線を寄こすだけでしたね。私はあなたの時間にルーズなところが嫌いでした、ルーズであるそのことによりも、迷惑をかけている人に対して何の気配りも寄こさない図太い神経が嫌いでした、そうそう、私はあなたの他人を気遣うことを知らない、その無神経なところが何よりも嫌いなのです。お世話になっているお客様と会話をする電話でも、手伝ってくれる社内の協力者との内線でも、少しも悪びれることなく音を立てて受話器を置くことが出来るその神経が本当に嫌いなのです。そしてそのくせ、偉い人には歯向かわない、戦わなければならないところで戦わない、そういうところが大嫌いだったのです。印象的なエピソードがあります。私が何がしかの仕事のやり方をあなたに尋ね、あなたは以前このように対応をしたことがあるから、それを倣うように、と私に言いました。後にその手法には問題があることがあなたよりも上位の人間から指摘された際、俺はその方法を参考にしろと言っただけ、そのようにやれとは言っていない、そう私に言いましたね。これが上司と部下という関係でなければ、上司1人部下1人という関係でなければ、私はあなたのことを嫌わないで済んだかも知れない、そう思うと、あなたとの出会い方をもっと違う形で迎えたかったと感ぜざるを得ません。私はあなたの部下になる前、新入社員1年目の時代にあなたから仕事を褒められてうれしく思ったことを本当によく覚えているのです。

 私はこの春、あなたを卒業して、別の部署へ異動することになりました。異動先の新しい上司は、私が入社1年目の時に、教育係として1年間お世話をしてくれたとても尊敬出来る先輩です。私は彼の仕事、人柄、何気ない所作から発声の仕方までありとあらゆるところをとても魅力的に思っていますし、こんな人が私の上司であったなら、そう夢見たことも一度や二度ではありません。そして私の上には1人先輩がいて、彼もまだ若い年次ながら社内の重要なポジションを任されるような誰もが信頼する営業マンです。きっと彼から盗めることもたくさんありますし、色々なことを教わりたい気持ちでいっぱいです。また私の下には私を頼ってくれるかわいい後輩もおり、長らく夢見ていたチームでの仕事が、これからやっと出来るようになる、涙を流して喜ぶべきことが、これからやってくるのです。

 あなたの部下として過ごした2年間の長い冬が明けた、この春の良き日に、私は新たな舞台へ上ります。こんなにもうれしいのに、新しい環境はこんなにも魅力的なのに、あなたから離れることを考えるとほんの一抹、幼少期に慣れ親しんだあの車のことを思い出してしまう私はきっとこの先あなたを許すでしょう。つらく苦しいものが失われて、形が無くなることで美しい思い出になる例をたくさん知っています。私が部下である時代に生まれたあなたのかわいいお子さんがどうしているか、どんな言葉を喋り、どんな遊びを好み、どんな能力が芽生えたか、そんな話を将来、今より少しだけ将来にきっと聞かせて欲しい。あなたといよいよ別れる時、私は涙の予感を感じて、きっと強く我慢をすることになると思います。それは場の感傷に飲まれるからではなくて、心の底ではあなたのことを嫌いたくないからなのです。あなたと私、そしてお互いの大切な人々の健康を祈念して。