2016/05/06

ピースをためらう僕をまた一つ理解した件

 北陸新幹線が開通したので観光客が続々と金沢へ出かけて行っているらしいという話を聞いたのはいつのことか、とにかく新幹線というやつはなんとも心躍る乗り物で、ああいよいよ動き出すぞという瞬間、旅の始まり、旅先で体感する目に新しい風景、普段の生活を離れた体験、味蕾が過去に理解したことのない味のする食べ物、そういう物事の予感が乗り物の動き出す感覚とうまく重なって、はらわたの深いところのあたりからぞくぞくと湧きあがって来るくすぐったさが堪らない、つまりは新幹線の出発が旅のスタート、その瞬間を味わいたくて、ということを乗った後からぐるぐると考える。その時はただパートナーとゴールデンウィークに何をしようかという話をしていて、ふとそう言えば北陸新幹線という乗り物があるらしく、僕は何だかわからないが新幹線が好きだということを思い出したということなのである。

 金沢旅行のビギナーコースと言えば兼六園、金沢城跡、21世紀美術館、近江町市場と来て、終わりから言えばその全てを回ることが出来たし何かやり残したことは、という考えにも至らない。印象深く思い出されるのは金沢駅がとても大きくて綺麗、思ったよりも都会の香りを漂わせていたということと、お土産の、殊に菓子の造形が細やかで美しく可愛らしかったということである。旅の楽しみの一つと言えば食べ物であるが石川と言えば魚介、宿は食事無しの素泊まりにして、三回の食事の機会で毎度海の幸を口にした程だ。また歴史に疎い僕から見ても関心を持って頷かせられるような美しく整備された自然が兼六園にはあり、自然でありながら人の手によってあえてそのように横たえられているという不自然さが何とも時の権力者たる人物の自己顕示心と言うか余裕と言うか、それでいてちっぽけなようにも思える彼の人の器が、教養が無く真っ白な地盤に印象を描き込んでいくことが出来る存在であるからこそじわりじわりと身体に染みいって来て、最後には非常に人間臭い味わいが興味深く心に残った。
 そして身も蓋も無いようなことを言うようだが何より旅行なんてものはどこに行くかでは無く詰まるところ誰と行くかであるに決まっている、僕のような生来出不精な人間にとっては輪をかけてその理屈が当てはまる、これが定まらずして金沢へ旅行に行きたいなどと抜かすはずもなかった。兼六園の美しい風景を前にして二人並んだ写真が欲しくなった僕らは他の観光客に携帯電話を預け、写真を撮ってもらうことにした。二人並んでカメラに目線を向ける場面、そこで一瞬葛藤があり、そしてすぐに落ち着いてパシャリ、確認を求められお礼を返し、無事に写真を手に入れるという一連の流れの中で、ああそう言えば僕はカメラに向かってポーズをとるということに一瞬戸惑いがある質であるということを思い出した。撮ってもらった写真を見てみると僕の顔こそ笑顔であるが両手は中腰になった膝の上、隣に立った恋人はしっかりとピースサインである。

 遡れば小学一年生、今からおよそ二十年程前のこと、雪の降った校庭に当時のクラスメートと雪山を作り、そりで滑り降りる遊びをしていた時に保護者の誰かが撮ってくれた一枚の写真をよく覚えているが、よく思い出してみると四人映った枠の中で僕だけが両手を遊ばせていた記憶がある。当時の僕が今の僕と同じ感覚を持っているとするならば、ピースってちょっと恥ずかしいかな、あっでもやっぱりせっかく撮ってもらうなら何かポーズ取った方がいいかな、あっでももうシャッター切っちゃうだろうしこのままでいいかなパシャ、ということになっているはずだ。つまり茶目っけというか砕けた心を態度で示すまでに一旦何とは無しに大丈夫なんだっけ、という確認が入ってしまう性格をずっと持ち続けているということがそこからわかって、ああそれならば僕の普段の行動の傾向とぴったり一致するな、などと一人その場で腹落ちをすることになった。特に写真の場合、一緒に写る相手や撮影者よりも、現像された写真を後で見る不特定多数の人というかかたまりに対するためらいがあり、無意識に近いほど一瞬、手を引っ込めてしまうのだ。僕という人間は借りっぱなしの猫のようなものでいつまでも大人しいというか遠慮がちというか、相手に慣れるまで時間がかかるというか、ためらいなく思い切り何かを披露するのが苦手というか、簡単に言えば臆病な性格をずっと持っているということをそのピースの一件から導き出した、ここであえて導き出すという言葉を使ったのは、行動から心理を探る学問にテレビや書籍を通じて触れてみた時のように、僕の一瞬ピースをためらうという行動が何を表しているかということから僕という人間の本質めいた部分を露わにしたのだという知恵者風な心意気がふわりと僕の決してまぬけな顔で生きている訳ではないぞという矜持というか心の中の高偏差値な部分を撫でていったからで、つまり僕はまた一つ僕を理解出来た、誰かに頼らず自分の自分に向けられた関心によって分析することが出来たという誇らしさが胸に満ちていたのである、なんて顔を誰に見せる訳でもないまま、兼六園の美しい風景を目の端で撫でていきながら二人歩くのであった。

 今年のゴールデンウィークは二日休めば十連休というスケジュールであって、ありがたいことにそのような予定になった。金沢へは一泊二日で、自宅のある神奈川へ戻ったのが二十一時ごろ、その翌日母方の実家である山形へ始発で向かうという多少無理をした予定を組んだのは、実家の他の家族が先に山形へ訪れていて、僕が行けば家族全員が祖父母に顔を見せられるということがわかったからである。無事に社会人生活も続けており、今年からは後輩の指導係にも任命されたことなど伝えると祖父母は大変喜んだので何と意義のある予定だったことかと思う。家族と一緒に実家に戻ってからは地元に残った友人らと学生時のような時間を過ごし、また出産を控えた友人夫婦らとは期待に満ちた将来の話をするなどして心穏やかに過ごした。今日は一人暮らしをしている自宅へ戻って来て、明日からは大学時代の学部を共に過ごした友人らが我が家へ泊りに来る。ありがたいことに借りてきた猫をやめていい環境の中にいて、しかしながらずっと借りっぱなしなのはなぜかと考えると、そういう人々を失ってしまう、嫌われてしまうのが怖いからであるということはとてもよくわかっていて(これは何と家族にも当てはまる)簡単に言えば今近くにいてくれる人たちに一生愛されたいし僕も一生愛し続けたい、そういう保証めいた何かが欲しいということ、つまりラブ&『ピース』ということでこの話題の締め。