2016/08/18

19歳の人生観の件

 素敵な本屋さんには男性向けのエロ雑誌は置いてないくせに、セックスによって心身共に綺麗になろうと謳うライフスタイル誌は置いてある。友人と飲む約束をして駅に集まる時刻の数十分前、スターバックスが併設された書店の洗練されたラインナップのそれはそれは素敵なこと、素敵が過ぎて自分が素敵な人間になったような気がしてくる空間、優れた翻訳家ならば気取った書店と訳してくれる、つまりはそういう店にいて、ふと目に留まったのが「翻訳できない世界のことば」という、教養溢れる絵本。言語を育む地域の文化、あるいは歴史であるとか、その言語の文法などによって、他の言語でうまく直訳できない独自の言葉が生まれることがあって、そういうものを集めて紹介しているという内容、気になってぺらりぺらりと内容を確かめてみる。今思い出せるもので言えば例えば「バナナを食べるのにかかる所要時間」なんてものを一語で表せる名詞を持っている言語があるとか。これは面白い、日本語からのエントリーはあるのかしら、なんて思って探していると三語ほど。「ぼけっと」これはつまり何も考えずぼーっとすること、「わびさび」ああなるほどね、これは日本的な文化を感じる言葉、そしてもう一つが「積読」であって、わからなくもないが不思議なチョイスだわと思う。

 嫌いな言葉が一つあって、大学生になったくらいの頃からよく聞くようになったのだけど、リアルが充実しているを略して「リア充」という言葉。リアルというのはオンラインの対義語であってつまり人間対人間の生のコミュニケーションの機会をたくさん持っている人のこと、とりわけその相手として恋人という選択肢のある人に向けて使われることが多いような気がする。この言葉を指して該当する人を妬んだり、該当するしないの基準を設けようとしたり、自らがそれに該当するか否かは自身が決めることであるからして、というような意見を発表して、それに対して負け犬の遠吠えを聞くようなオーディエンスがいる状況にうんざりしていた学生時代、僕はこの言葉の意味とか、なぜそんな言葉ができてしまったのかという背景として想像されることであるとか、好んで使う人とか、関係する一切合切にアレルギーを起こしてしまって、端的に言うと気持ちが悪くて、とそれと同時に、この言葉というのは不思議と「私はリア充です」という使い方はせず「彼はリア充です(よって妬ましい存在です)」という使い方が正しい(使われる機会の大半がこれという意味で)と思われるのだが、この言葉の話者に対して「どうだ僕はリア充だぞうらやましいか」という態度を取ってみたいという気持ちもちょっぴり持っていた。夏は自らのリア充度合が試される季節だと思う。

 今年の夏休みは祝日も手伝って十一連休。十一日の休みがあるといろいろなことができて、いろいろな人と会えて、いろいろな話を聞ける。ありがたいことに連休を一緒に過ごしてくれる人がたくさんいて、そのエピソードを画像付きでfacebookなどに投稿すれば僕のなんとリア充なことかが世界中のみなさんに知れ渡るであろう、ということもつまりこれを揶揄だとわかる人だけが僕の友達なのである。今年で僕も二十六歳。ただ僕と一緒に過ごしてくれるみんながまだまだ僕と一緒に子供のように笑っていてくれたことが嬉しかった。
 お盆休みといえば帰省。僕にとっての帰省は、母方の実家への帰省を指す。僕の実家は東京都内で、現在は神奈川県で一人暮らしをしている。実家への帰省なんて、鈍行で一時間である。こんな風情のない話があるだろうか。
 現地で暮らした経験はないのだが、母が里帰りで出産をしたので僕が初めて空気を吸った地は山形県になる。子供のころから毎年毎年夏になったら山形へ帰る。方言も多少使える。僕にとっての帰省は、ここに帰ってくることを指す。
 少年時代ほどは皆が予定を合わせづらくなってきたが、夏に帰るといとこと会うことができたりする。母は三兄弟で、それぞれに二人ずつ子供がいるので、僕には母方だけで四人のいとこがいることになる。今年の夏はそろそろ二十歳になる、現在十代の女子と久々に顔を合わせた。
 彼女は大学生で、学校の先生になる勉強をしているとのことだった。将来の夢が教師になること、というのは田舎では大変に受けが良い。何しろ田舎から出たことがないおじいちゃんおばあちゃんでもその仕事のなんと意義深いことかが理解できるからである。僕なんぞは勤め先がIT企業であるという点でもうアウト、噛み砕いて噛み砕いて、コンピュータ関係の仕事であるという表現しかできない。おじいちゃんおばあちゃんは僕がパソコンを売る仕事をしていると思っているが実際にはアプリケーションのレイヤーの仕事である。
 彼女は母校の先生になりたいと言う。これはとてもよく聞く話。僕の学友にも将来この学校に勤めたいと言う者が複数人いたような気がする。ただしこれが彼女の変わっているところだなと思ったのだが、私の学校は中高一貫校で特別な勉強をしなくても進学ができてしまう、私もかつてはそのような生徒だった、しかしながらそれではいけない、きっと後悔する時が来てしまう、事実私はしっかり勉強をしてこなかったことを後悔している、だから私のような生徒を今後出さないために、そのことを伝えられる教師になりたい、だから母校に勤めたいのだ、とこういう訳だ。正直僕はその考え方の、その理屈は理解できるのだが本心からそんなことを考える人間がいるということに、びっくりなんて言葉では言い表せられない、驚愕の思いだった。ひどく大人びたというか、達観した物の言い方だなとも思ったし、その大胆さが逆に若い考えのようにも感じられた。そして何の教科を教えたいのかと尋ねると数学と言う、その理由を聞けば「苦手だから」とそんなことを言うものだから、いや人間という生き物はわからんなあと思うのであった。

 入社四年目にして僕は新人の教育係なのだが、大事な大事な社会人一年目を預かるというのはとても緊張するし強く責任を感じる。まだ社会で自立できない時期に、無理やり立たせられるのか、支えがあって立つ練習をさせてもらえるのか、どれくらいの時間を与えられるのか、心身の余裕はあるか、そういうことの度合によって、二年目の過ごし方は変わってくるはずである。だから僕は自分が面倒を見ている新人に対してとても真剣に向き合っているし、今後の社会人人生の中で、その原点はこの一年目の僕とのやり取りであったと振り返る時が来てほしいと願っている、そういう風に思い出されることを教えたいと思っている。年少者に何かを教えるという行為は非常に意義深いものであるが、それと同時に持たされるものも大きいということを近頃実感していて、でもそういうことを強く背負いすぎないという性質も教育者の度量としては重要なのかも知れない。彼女がどんな先生になるのか楽しみだなあなどと思いながら、自分が大学二年生の時はどんな自堕落な生活を送っていただろうかとそんなことを考えていたりもした。

 さて今年の夏休みもそろそろ終わりで、それではそろそろ夏ということで夏らしい曲を一曲、という振りの後に森山直太朗の「夏の終わり」を歌うというベタなボケを楽しんでいたのがもう先月のことだが随分新鮮な思い出のように感じられる。夏は本当に一瞬で過ぎ去るものであるが学生のように長期休暇がとれる季節というわけでもないので強い感慨があるかと言うとそうでもない。会社に行ったら行ったで懐いてくれる後輩とくっちゃべりながらする仕事も楽しい。後輩と言えばそういえばウナギのおごりをかけてじゃんけん勝負をする予定がある。後輩だからと言って容赦はせん。