2016/09/25

友人の結婚と側頭部の毛の件

2階建てのアパートで、両階に3部屋ずつ、その内のひと部屋に僕が暮らしていて、みんな、ここで言うみんなとは僕が仲良くしたいと思っている人たちのことで(決して特定の5組と仲良くしたいと思っているということではなくて単なる例えとして)、みんなが残る5部屋に根付いていて、そんな暮らしがいいなあと思うくらいに僕はとても寂しがりなのであった。もちろんそんな暮らしは無理だと知っているから、なるべくみんなと仲良く、そして会おうと思えばすぐ会えるくらいの場所にいて、簡単に連絡の取り会える関係でいたいと思っているから、だから友人同士の結婚なんてとても素敵で、みんな、の中にひとつの家族があって、なんだか、みんな、が、みんな、でいるということに説得力が生まれるというか、地盤が固まっていくというか、みんな、とずっと、みんな、でいられるような気がしてきて、先日の連休の初日に友人同士の結婚の報告を聞きに出かけた先で、みんな、といっしょになって、久々のひともいて、ああ、みんな、まだまだ、みんな、でいられるなあということがたまらなく嬉しかった、それが第一の感想だった。

昔からどういう訳か、役者勢ぞろい、という感じに弱い。なんとも柔らかいニュアンスだが、決して万能ではないが何かに秀でているメンバーが揃うことで、各方面のスペシャリトが集結、みんな揃えば全方位完璧なのだ、という状態、その結束、でこぼこなのにまとまって見える落ち着き、そういう物がたまらなく好ましい。色で分かれた戦隊ヒーローなどはそう、求められる能力で体型が異なるラグビーのチームもいい、あと色々な味が集まったスパイスの瓶詰めなんてものも素敵だ。みんなが集まって、それぞれ違う特徴とか能力があって、よくあるじゃない、ドラマ、映画、アニメでもなんでも、登場人物がみんなで一枚の写真に収まって、みんなかっこいいポーズで、そうそう昔木村拓哉が検事役のドラマがあったでしょう、エンディングで登場人物みんなが横並びで画面正面に向かって歩いていくの、あれはたまらなくかっこいいのよ。そういうのがすごく好きで、だから友人の結婚を機に集まったみんなが、同じ場所に集まったみんなが、みんながみんなでいるこの関係が、何だかとても素晴らしいもののように感じられたということ。僕はとても気分がよくて、それぞれがらしい、みんならしい服装をしているというだけでも嬉しくて、まだまだ人生は楽しいようだと思った。僕の姿形も誰とも同じでなくて、それがとても嬉しかった。

僕がどうしてこんな姿になろうと思ったのか、ということの前に僕がどんな形をしているひとなのか、について。ツーブロック、つまりもみあげから耳のうしろ付近にかけての髪を剃り、頭頂部から伸びる髪によって剃った部分が隠れるような髪型のことだが、それが流行って、老いも若きも側頭部を剃り出したような時勢に、僕だって若い男であるから自らの見栄えのことが気になり、その髪型いいかもなと思って美容院に駆け込むのではなくバリカンを手に取った。正確にはひげトリマーと呼ばれる機械で、ひげの長さを半ミリ単位で整えることができるバリカンと同じ仕組みのもの。僕は生意気にも顎にひげを生やしている。その機械を使って右の側頭部をバリバリ。自分で自分の髪を整えるようになって久しい。恥ずかしながら美容院に行ったことがない。床屋には何度かある。もともと襟足を刈り上げるのにそれを使っていたので何とも簡単に右側のツーブロックは完成したが、僕はどういうわけか昔から(高校生くらいから)左右非対称の髪型が好きで、もうこれでいいんじゃないか、これで完成のような気がすると思い、バリカンを置いた。この時はまだもみあげ部分を剃った、普通のツーブロックだった。
一度剃ってしまうと少し伸びただけで中途半端でかっこ悪いなと思い始め、普通の社会人がひげを剃るのと同じようにもみあげを剃るようになる。なんかちょっと剃りすぎちゃったな、まあいいか、が重なってくる。そして次第にもっと剃った方がいかしてるんじゃないか? とそういう思想になってくる。今は額の生え際のちょうど中心から斜め右後方にかけて坊主頭になっている。額からそのまま後頭部の方へバリバリとバリカンをあてるのは爽快である。

人というのは、などという書き出しで物を書き始めると何か壮大なことをそれなりの身分の人間が主張しようとしているみたいに見えてしまうがそんなことは別になくて、ただきっとそうだと思うこと、どこか他人と自分との差というか、他人とは一風変わった自分を演出したい気持ちがある生き物だと思う。僕なんぞはその気持ちをかなりこじらせていて、例えば服を選ぶ基準の大きな部分を「他人とかぶらなそうなこと」という項目が占めている。僕ってば営業マンなのにこんなところまで髪を刈り上げて、ひげまで生やして、派手なジャケットにスカしたネクタイつけて、メガネも真ん丸だし、なんてことを思いながら出勤する時の気持ちの軽さと言ったらない、僕はそういう人間だった。後決してこれを例えばあえてダサいファッションをする自分はカッコいい、みたいな、あえて外す思想でやっているわけではない、これが他人の注意を引くばかりか見た目にも華やかであると信じて(そう見えて)いる。僕にだって僕の横を歩く人へ、身なりに気をつけないパートナーを連れているなという視線が注がれてしまうのは嫌だという気持ちがある。

話は返って友人の結婚報告会の席。何ともありがたいことにみんなが僕の頭を指さしてこれはどういうことかという旨の指摘をしてくれて、柔らかく表現すればみんなにいじってもらって、また女性陣を差し置いて長髪の男子がいたりもしたのでそちらも中々ですなという物言いが楽しかったりもした。僕はこの場で自分は他の誰でもない存在だしみんなもそうであって、誰と誰が同じということはなく、全員に互換の関係がなくて、同じ形が一つもないパズルのピースみたいな存在で、それらが集まってある一定の完成された形になっていることに何とも言えず感動を覚えた。もちろん来られない友人もいたから、みんなまとまったらもっと違う形になるはずで、そういう機会が今後あることをとても期待しつつ時間は流れたのであった。誰かと誰かが違うということは決して見た目だけの問題ではないのだけれども、直感的に理解しやすいのは見た目だったりするものだから、僕、この中の誰でもないな、彼もそうだし、彼女もそうだな、というのを目で理解したりして、一人そういう気持ちで、ああとても、楽しかったな。