考え事をしようと思って考え事をすることはない。ふと気づくと考え事をしていて、数十秒から数分くらいの間、目の前の事物や人の言動に対して反射的にうんうんとうなづいたり簡単な相槌を打ったりしているが、その内容がさっぱり頭に入っていなかったり、そもそもそれがどれくらいの時間続いたのか上手く思い出せなかったりして、僕にとって考え事とは急に始まって急に終わるもの、思わぬところから急に種火が上がり、消えた後我に返るもの、そういうものである。
考え事をしたい時、というのがある。ここで言う考え事とは先に述べたようなことではなくて、あえてこれを考えなければならないとか、無視できない大切な問題であるとか、そういういつも心の見える所に刺さっているなんやかやについて馳せる思いのことである。これは考え事のカテゴリとは少し違うような気がする。かと言って他に何と表現すべきかわからないので、ここでは便宜的に考え事とするが、僕にとって考え事とは前者のことで、両者はまったく違うものだと思っている。僕には前のことでも、後のことでも、考え事の機会が多くて、特に後者によって時間を使いたいと思うことが最近はよくあった。つまり社会に奉公する身として、そして僕自身の将来のことについて、またあるいは将来を見据えた時、近々に進行方向を調整すべきだと思うことや、あるいはそうした状況それぞれで僕自身が抱くであろう快さの度合い、そして僕を心配してくれる人たちの気持ちなどについて、ああ考えたい、考える時間が欲しいというそういう気持ちになることが、いやそんなことばかりで、そういう時どうするかと言うと僕は銭湯に行くことにしていた。
いじらしい幼児時代のエピソードを一つ。母方の祖母が入れる風呂はとんでもなく熱い。子供だから無理とか、大人なら我慢できるとかそういうものではなくて、誰が入っても熱い。足の先を少し沈めただけで、それは冷水に対する反射と同じように筋肉が反発するほどのものであったが、まだ自分を指して僕と言い始めたばかりの時分であった僕はなぜかそれに我慢して入ることが出来たと言う。そして湯船の外にいる親の顔をじっと見つめて、明らかに我慢したような顔をしつつも、どんな文句も言わず、ただ静かに湯に浸かっていたとのこと。僕自身のことであるからはっきりとわかるのだが、僕は心配事ほど他人に言わず、自分の中に留めておく性格であり、小学校の三者面談でも自分で解決しようとしないで大人を頼りなさいと言われたし、会社の査定面談でも自分で解決しようとしないで上司を頼りなさいと言われた。幼児時代の僕も、ここで熱い熱いと騒ぎ立てて大人を心配させたくなかったからに違いない、はっきりとわかる。人の性格は後天的な影響が強い、むしろそれで十割だと思っていたが、自分で覚えていないくらいの時代に今と全く同じような思考回路で行動していたと思うと、僕という人間の性質は持って生まれた要素もかなり大きいのではないかという気もしてくる。主題はそれではなくて、どういう訳か僕は熱い風呂が好きだという看板を持たされて育って、自分でもまあそうなのかも知れないななんて暗示めいたものにかかって、今でも熱い風呂に入りたいと思うことがある。不思議と風呂好きの大人というのは多くて、大人になってから友人と遊びに出かける先としてスーパー銭湯が選ばれることも珍しくなかった。
家の近所に銭湯があることに気づいたのは今年、近頃秋めいてきたなと思うような気温を感じる頃で、正確には近くにそれらしきものがあることはもっと前から知っていたのだが、そこがまさしく銭湯であって、スーパー銭湯と呼ぶべき大型レジャー施設然としたものでないということも知っていたから、なんだかそれで僕の風呂を満喫したい気持ちを満たしてくれるのだろうか、なんてそういうことを考えていたりもしたものだから、この土地に住んで二年と少しだが、これまでしばらく足の向く先としてエントリーされることがなかった。そして今年の秋には関東でも雪が降ったりして、つまり寒くて、そして上司が対策を考えようなどと言ってくるほどに長い勤務時間をたたき出していたこともあって、足を伸ばして湯に浸かりたいという気持ちが爆発、もう銭湯でもなんでもいいから温かさで僕を満たしてほしいと思った瞬間僕は銭湯の玄関で靴を脱いでいた。
僕は視力が悪いので、家のシャワーならまだしも風呂屋では浴室でもメガネが必須である。湯に浸かって、足をぐんと伸ばして、ここでは見えなくてもいいからメガネを頭の上に乗せたとき、ああ、考え事ってこういうところでするのだなと思った。
当然誰かの気配がある、誰かが湯に浸かっていて、誰かが身体を洗っていて、誰かと誰かが話をしていることもある。ただそれぞれが、それぞれの音が、湯気に惑わされてゆらめき、反響して、具体的な意味として頭に入ってこない。誰かが湯に浸かっている、気持ちよさそうな顔をして何か一人ごちている様子が見えたりしたとしても、何て言っているのかわからない、誰かと誰かが話していても、その内容までは聴こえない。でも孤独という訳ではなくて、誰もがこの温かな湯に、まるで蜜に集まる虫のように吸い寄せられて、ここでは誰もが穏やかであるということはわかるから、逆に言うとそれしかわからないから、無駄なことが一切頭に入ってこないから、誰かがいて、みんなで一緒にいて、でも一人一人の空間であって、この世の偉大な発明の内、銭湯で閃いたアイディアが元になったものっていくつあるのだろうか、なんて思うくらいに、自分の脳から与えられるアジェンダだけに集中することが出来た。メガネをはずした時、僕の目の前には厚い擦りガラスが一枚、周りの景色がぼやりぼやり湯に溶けていくようで、ここで僕は、決して孤独ではない温かな集団における完全な孤独を獲得したのであった。
仕事で疲れた時に運動によってそれを解消しようと思うことは、そんなに悪いことでもないような気がする。まあ肉体労働であれば話は別だが、どちらかと言えば頭脳労働である僕は普段使わない筋肉を活発に動かしたい気持ちになって週末に走りに出かけることがある。一時間ほど経って、家に戻り、あらかじめ用意しておいた着替えやらタオルやらを詰めたカバンを持って銭湯へ向かい、それは少年少女がおやつを食べるような時間。太陽の光が差し込む浴室で汗をかいた身体を洗い、熱い風呂にゆっくりと侵入していく時、その瞬間、僕はどんな考え事からも自由になって、そしてその心で、さてあの問題はどのように対応すべきかな、なんて思うのであった。今では週に一度はその銭湯に通っている。一回四七〇円。番頭のおばさんに小銭を渡すスタイル。学校のプールで腰から下を消毒するために浸かった浴槽と大体同じくらいの大きさ、目算四畳半くらいだろうか、それが茶褐色のものと透明なものの二種類ある。シャワーは洗い場に固定されており、黄色いケロヨンの湯桶が当然のように重ねて置いてある。どこかで見たことがある、誰もが銭湯という言葉で思い浮かべるような、権化と呼ぶべき形の銭湯である。
どんな考え事も最終的には人生の目的という大きな問題にたどり着くと思う。そんな大きなことを考える時はやはり安らかで穏やかな環境にいるべきで、生きている限りはそうやって物事を考えて行った方が健康的だと思う。大学で経営の勉強をしていた時に、経営者は社員がポジティブなモチベーションとネガティブなそれと、どちらによって労働をしているか知るべきであるとの言葉を受けたことがある。前者は簡単に言えば出世してやるぞとか、いい仕事をして認められてやるぞ、というモチベーション。後者はちゃんとやらなきゃクビになっちゃうよ、というようなモチベーションのこと。どうせ同じように働かなくてはならないのなら、前者の方が心安らかであるに決まっている。できればそういう結論を出すべきだと思うし、そのためにやはり僕らは銭湯を利用すべきなのだ。しかし何度も銭湯に通ってしまうということは、そこで出したポジティブなモチベーションを維持、あるいは実践できていないのでは? という疑問もあるが、まあ考えても仕方がないのでとりあえず銭湯に行こう。考えても考えても、なことは山ほどあるが銭湯が心地よい場所であるということは揺るぎない事実なのである。考えることをやめてはいけないと思うが、簡単には正解にたどり着けないものだ。